- 歌のワイド90分! - ハートにジャストミート - スーパー電波バザール 年越しジャンボ同窓会 - ものまねバトル - 勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー - ザ!鉄腕!DASH!! ョン (1件), キンクマハムスターのユーちゃんをお迎えすることに。, 情報通信政策に関する記事のまとめ(2020.11.9~2020.11.15), キンクマハムスターのミーちゃんが★になりました。, クラウドに関する記事のまとめ(2020.11.9~2020.11.14), コラム「遅い会社は利益が出ない」, 【連載報告】テレワークを進めることで社員にストレスを増やしていないか。ストレスの増加は生産性の減退につながる, ビジネスの変化は時間感覚の変化と同期する, 2021年の戦略的テクノロジのトップ・トレンド. - ズームイン! アメリカ横断ウルトラクイズ』(以下「“今世紀最後”」と記す)として一度限りの復活を果たした。, 番組名の「アメリカ」とはアメリカ大陸という意味であり、アメリカ合衆国(米国)のみを指したものではない。, 日本各地から集まった挑戦者たちが「知力、体力、時の運」を合言葉に広大なアメリカ大陸を横断しながら1,000問以上に及ぶクイズに挑戦し、ニューヨークを目指すという番組[1]。企画段階での名称は「世界をバスで横断・ジャンボクイズ大会」であり[2][3]、最初はアジアを横断して敗者はその場で置いて行くというアイデアだけだったが、「でっかくいこう」ということでアメリカ横断という企画に変わった[3]。また、本番組の総合プロデューサー、審査委員長を務めた佐藤孝吉は、他のクイズ番組にもありがちな、頭の良い者が普通に勝っていくだけの番組になるのを嫌い、体力系クイズも取り入れたり予選でジャンケンでアメリカ行きを決めたりするなどの新しい試みを採用したり、また敗者によりスポットが当たる番組にしようと考えた[3]。, 旅の途中「チェックポイント」と呼ばれる各地で風土や名所などに合ったクイズを行い、勝ち抜ければ次のチェックポイントに進み、敗れると現地で厳しい罰ゲームを受けた後、日本へ強制送還される。数々のチェックポイントを勝ち抜き、ニューヨーク(第9回はパリ、“今世紀最後”は西インド諸島)には各回2名(第11回は3名)が進出し、ここで最後のクイズを行い、優勝者「日本一のクイズ王」を決定した。, 他のクイズ番組とは異なり、18歳以上(第11回までは45歳以下・第12回から第16回までは50歳以下・“今世紀最後”は上限なし)でパスポートを所持していれば、オーディションなしで誰でも番組に参加可能であった(高校生は不可。高専生は4年生から可。他にも細かい規定があった)。, 1987年(昭和62年)に第24回ギャラクシー賞特別賞[4] と第4回ATP賞優秀賞を[5]、翌年には第25回ギャラクシー賞25周年記念特別賞ユーモア賞を受賞[6]。ギネス・ワールド・レコーズ(ギネスブック)には「世界で最も制作費のかかったクイズ番組」として記載された。, 2014年6月にCSのファミリー劇場で初めて第12回が再放送され(ただしCMと提供クレジットの部分は全部カットされ、第4週の第9チェックポイント・サンパウロのクイズ本編にも、一部カットされた箇所がある)、また進行役だった小倉淳が関係者をゲストに迎え、放送当時を振り返るオリジナル番組「今だから話せるウルトラクイズ丸秘証言集」(全3回)も制作された(この「史上最大!第12回アメリカ横断ウルトラクイズ&今だから話せるウルトラクイズ丸秘証言集」は、スカパーJSAT主催の「スカパー!アワード2014」にて「ココロ動いた番組賞」を受賞した[7])。このほか、第10回と“今世紀最後”については横浜市にある放送ライブラリーで視聴することができる。なお、日本テレビでは、オンエアテープ以外の映像資料については、同社が旧社屋から汐留社屋に移転した際、新社屋に保管場所がないとの理由で全て破棄したため現存していないという[8]。, 番組タイトルが出る場面のファンファーレはMFSB「Zach's Fanfare #2(ザックのファンファーレ #2)」の終盤の部分、番組のテーマ曲はメイナード・ファーガソン「Theme From Star Trek (スタートレックのテーマ)」に「The Cheshire Cat Walk(チシャ猫のウォーク)」の終わりの部分を組み合わせたもの。, 番組初期(1977年(昭和52年)-1985年(昭和60年))は、日本国外へ脱出できた挑戦者の大半が海外旅行初体験であったが、番組開始年の1977年には年間315万人強だった日本人の海外旅行者数が、番組末期の1990年代には番組開始時の3倍を超える年間1000万人超となり[9]、時代の変化とともに海外旅行が庶民にも比較的容易に手に入る娯楽となったことで、相対的に挑戦者たちの驚きの価値は下がっていった[10]。, とはいえ番組中期以降(1986年(昭和61年)-1992年(平成4年))は、通常の海外旅行では行くことが困難な場所をルートとして選択するようになり、スケールを維持した。「突撃○×どろんこクイズ」や「バラマキクイズ」などの定番クイズと共に、第5回以降アメリカ合衆国以外の国にも上陸し、第9回ではアメリカ大陸を経てパリで決勝、第10回ではアメリカ南北ルートの選択、第12回では北南米大縦断、第13回ではオーストラリアとニュージーランド、第14回ではタヒチもルートに加えアメリカ大陸上陸後、かつてアメリカ西部開拓団が通ったオレゴン街道を全ルートバス移動で遡るなど、演出面でさまざまな工夫を凝らした。, 初回から番組名には「史上最大!」とうたっており、第1回は応募総数4,188名に対し実際の参加者は404名という、当時のクイズ番組の予選としてはかなり大規模であった。当初の第一次予選会場の後楽園球場でも1塁側スタンドの一角で行っていたが、回を重ねるごとに参加者は増え続け、1983年(昭和58年)の第7回では初めて1万名を、1988年(昭和63年)の第12回では2万名を突破した。, しかし莫大な制作費に加え、第10回をピークに視聴率が徐々に下落していったことなどの問題により、1992年(平成4年)の第16回の放送を最後にレギュラー開催の終了が決定した[11]。, その後1998年(平成10年)に、日本テレビ開局45年記念番組として単発で復活。“今世紀最後”と題されたこの回は「第17回」とは称されず、ウルトラクイズのスペシャル版という意味合いが強かった[12]。この大会では年齢制限を撤廃し、過去最多の50,453名が参加。応募総数は7万名を超え、実に2万名を超える人々が第一次予選会場の東京ドームに入ることができなかった。これ以降も番組の復活が何度か検討されたことがあるが、2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降国際情勢が大きく変化したこともあり、実現には至っていない。, 本番組の影響を受けた番組も多数生まれた(番組がもたらした影響を参照)。しかし、大人数を日本国外に集めてクイズを行う形式を踏襲した例はごく少ない。他局は真似しようにも、どうしても出国手続だけで1日費やしてしまい、できなかったのである。そのノウハウとは、近畿日本ツーリストのウルトラクイズ担当者によると、「成田(第1回のみ羽田)空港行きが決まった人全員分の決勝地までのチケット取得と出国手続きをジャンケン前に完全に済ませておき、ジャンケンに負けた人の分をその場でキャンセルする」という手法であったという[13]。これは成田だけではなく、チケットは全員分決勝地まで用意しており、敗者が出るたびにキャンセルし[13][14]、その差額分は引換券にして払い戻していた[13]。またチケットは決勝地までのものだけではなく各チェックポイントから成田(東京)行きのものも、誰が敗者になるかわからないので全て仮名で取り、クイズ終了後に全て実名に変更するという方法をとっていた(#ハプニング・トラブル節の「テロによる日程変更(“今世紀最後”)」の項も参照)[15]。なお、誰が敗者になるか大体予想がついた場合は次の目的地のホテルで結果が出る前にその人の名前を外してみたところ、その通りの結果になったことがあったという[13]。, 日本テレビ側のきちんとした主旨の説明、旅行代理店側の腕、航空会社や空港スタッフ側による番組の主旨への寛大な理解と協力が必要であった(最初の頃は先方の通常の業務を超えていたこともあって嫌な顔をされたこともあったが、ウルトラクイズのことが知れ渡ると「あの番組のことだから」と徐々に理解を示されるようになっていったという[13])。番組の画的にも、時の運に翻弄される一喜一憂の表情が濃く現れることになった。, タイトルは「クイズ」であっても、単にクイズの優勝者「クイズ王」を決めるためだけの番組ではなく、普通の人々が突然アメリカなどの広大な自然や冒険・難局に直面したときの表情、挑戦者同士の触れ合いなど、人間ドラマを色濃く描かれた演出が特徴的であった。番組の主眼は挑戦者の人間模様、クイズに敗れた敗者にあり、「クイズ形式の人間ドキュメンタリー」というコンセプトがあった。, 番組で共に旅したのを機に、挑戦者同士がその後も何らかの形で交流を続けるようになったケースも多く、挑戦者同士が結婚したケースもある。, 各クイズ後、勝者と敗者はすぐ引き離される[16] ため、クイズを行う時は挑戦者は必ず自分の荷物を傍らに運び込んでおく必要があった。これは、あくまで旅の途上との演出も兼ね備えていた。勝者が敗者の行う敗者復活や罰ゲームなどと鉢合わせしないよう、観光という形で隔離することもあった。, 各チェックポイントにおいて失格またはドクターストップ以外の挑戦者本人の意思による自主的なリタイアは認められていない(ウルトラクイズ参加規定に明記されている。第7回では急病(尿管結石)によるドクターストップのため、挑戦者1名がカナダでリタイアとなった)。, 基本的に挑戦者はいつクイズを行うかは直前まで知らされず、たとえクイズの合間の観光に見えても、自分の荷物を持たされている限りいつクイズが始まるかわからない状態であった[17]。, 風光明媚な土地などでは、挑戦者を驚かせるため、クイズ会場までアイマスクをしたまま移動させることもあった。このようなシビアな条件が極限状況を生み出し、挑戦者同士の連帯感を生む要素ともなった[18]。機材の撤収や敗者への罰ゲームの収録を行う関係もあり、クイズの収録は午前中に行われることが多かったという。また、1日で複数のチェックポイントでのクイズの収録を行うこともあった[19]。, 福留功男は番組当初から、挑戦者の人間模様にも焦点を当てるために、恋人や婚約者の名前、家族構成や勤務先[20]などといったプライベートなことを聞き出し、番組の中で効果的に披露していた。, 優勝賞品はインパクト重視で、優勝賞品発表時の言葉から発せられるイメージと実物を見た瞬間のギャップが一つの見せ場となっていた。価値は100万円相当のものから無料同然のものまで年によってまちまちであり、実体も風変わりなものばかりであった。これは番組放送期間を含む1971年から1996年まで、オープン懸賞の上限が100万円に制限されていたことに加え、番組では東京からニューヨークまでの旅費も景品相当と解釈されていたためである。しかしながら比較的まともな賞品が進呈されたこともあり、「世界一周旅行」など日常では経験できないような賞品が用意されたり、優勝したニューヨークに家族を呼び寄せ高級ホテルに宿泊する権利が賞品となったこともある。なお、本クイズの優勝者に与えられるのは賞品のみで賞金は一切出なかった。, 回やチェックポイントによっては、勝者と敗者復活者などで食事などのランクに格差がつけられた場合もあった[21]。, 1977年(昭和52年)の第1回大会から1992年(平成4年)の第16回大会までと、1998年(平成10年)に行われた“今世紀最後”大会をあわせて全17回が開催された。, このほか、特別版として1982年(昭和57年)に『ウルトラクイズ 史上最大の敗者復活戦』が日本国内で開催された。, 予選以外では、アメリカ横断ウルトラクイズのタイトル通りにアメリカ大陸を横断するのが基本的なスタイルであることから、主な舞台であるアメリカ合衆国のほか、第4回ではプエルトリコ自治連邦区、第5回以降はメキシコ、カナダ、バハマ、イギリス、フランス(本国および仏領ポリネシア)、ボリビア、ブラジル、アルゼンチン、チリ、オーストラリア、ニュージーランド、ドミニカ共和国と、第10回の第1チェックポイントのみ日本(成田空港での搭乗時に出題されたクイズ)の合計15か国と1地域でクイズが実施された。, クイズ開催国の中で第10回のボリビアと第15回のドミニカ共和国には福留は訪れていない。これは第10回の南北コース分岐で福留は北米コース担当でボリビアとブラジルを訪問した南米コースは日高が担当[22]、第15回のドミニカは福留引退後の大会で上陸したためである。, 日本国外で最も多くクイズが開催された場所は「クイズの都」ことニューヨークであり、全大会においてクイズが行われた。ニューヨークで決勝戦が実施されなかった第9回と“今世紀最後”でも、共にアメリカ大陸最後のチェックポイントとしてニューヨークは重要な位置に置かれた。その次に多く開催された場所はアメリカ最初のチェックポイントであるグァムとハワイ(ともに13大会)。アメリカ本土では、上陸後最初のチェックポイントとなることが多かったロサンゼルス(9大会)およびサンフランシスコ(7大会)となっている。, アメリカ合衆国の州別で見てみると、ニューヨーク州の次に多く訪れたのは、上記の通り本土上陸後最初のチェックポイントになることの多かった西海岸のカリフォルニア州である(全17回中、第14回を除く16大会)。, テレビ放送は、第1回から第16回まで、当時木曜日に放送されていた『木曜スペシャル』で毎年10月下旬から12月上旬の間に、複数の週をまたいで放送されていた。第1回は2週(当初は1週のみの放送予定が2週に拡大)、第2回から第4回までは3週、第5回から第11回まで、ならびに第15回と第16回は4週、第12回から第14回までは5週に分けて放送された(第9回から第11回までは『木曜スペシャル』の放送時間が19時からの2時間枠、そのほかの回は19時30分からの1時間30分枠だった[23])。, 関東地区では、第3回以後本放送直後に『ビッグサタデー』で再放送された。地方では年末に再放送が行われることもあった。また1980年(第4回開催)より大会開催の直前[24]にも、『ビッグサタデー』で前回大会のダイジェスト版を放映した。, 一方、“今世紀最後”は1998年11月22日(日)・23日(月・祝)にそれぞれ2時間半、2夜連続で放送。「史上最大の敗者復活戦」は1982年(昭和57年)12月31日(金・大晦日)に、3時間半で放送された[25]。, 視聴率は、第7回(4週目)で歴代最高の38.5%を記録(4週トータルの平均でも34.5%だった)。, 第10回開催前に『アメリカ横断ウルトラクイズ 史上最大の傑作選 必勝!虎の巻』が1986年(昭和61年)6月19日に放送された。これはもともと、木曜日の後楽園球場ナイター中継が雨天中止になった時のための代替番組(雨傘番組)だった。出演者は、高島忠夫・石川牧子・福留功男・徳光和夫・小林完吾・日高直人の6名(小林と日高は後から参加)。また観客の中には過去の挑戦者が何名か入っていた。内容は次の通り。, “今世紀最後”放送日の本放送当日である1998年(平成10年)11月22日では、事前番組『史上最大!