また、NPB公示については、NPBの公式WEBページを基準とします (https://npb.jp/announcement/ )。ただしオフシーズンの移籍に関する扱いに関しては例外措置を設けます, 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧(ふくおかソフトバンクホークスのせんしゅいちらん)は、福岡ソフトバンクホークス(前身球団を含む)に所属する選手・監督・コーチの一覧である。, 福岡ダイエーホークス時代から2020年3月現在も選手としてソフトバンクに在籍している選手は次の通り。, プロジェクト:野球#FA移籍、トレード、FAに伴う補償として移籍が決まった選手の所属球団記載について, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=福岡ソフトバンクホークスの選手一覧&oldid=80403594. 南海軍(1938年~1944年) 近畿日本軍(1944年~1946年) 近畿グレートリング(1946年~1947年) 南海ホークス(1947年~1988年) 福岡ダイエーホークス(1989年~2004年) 福岡ソフトバンクホークス(2005年~) オーダー dhありメイン. 城島 健司(じょうじま けんじ、1976年 6月8日 - )は、長崎県 佐世保市出身の元プロ野球選手。. 福岡ダイエーホークス時代からの現役選手. 歴代 盗塁王 1リーグ ... 32 1941年 : 坪内道則: 朝日軍 ... 1946年: 河西俊雄: 近畿グレートリング: 39 1947年: 河西俊雄: 南海ホークス: 53 1948年: 河西俊雄: 南海ホークス: 66 1949年 : 木塚忠助: 南海ホークス: 59 2リーグ制後. 福岡ダイエーホークス時代から2020年3月現在も選手としてソフトバンクに在籍している選手は次の通り。 明石健志; 和田毅(他球団への移籍を経て復帰) 他球団で現役を続けている選手 若菜 嘉晴(わかな よしはる、1953年12月5日 - )は、福岡県八女郡羽犬塚町(現・筑後市)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ、解説者・評論家。, 柳川商高卒業後、1971年のドラフト4位で西鉄ライオンズに入団。柳川商業から後述の阪神時代までチームメートであった真弓明信とは「ナッパ」、「ジョー」と呼び合うなど、親友として知られる。2年目の1973年には当時の中村長芳オーナーが所有していた米国1Aのローダイ・ライオンズに野球留学するなど将来を嘱望されるものの、一軍にはなかなか定着できなかった。3年目の1974年には貧血のため1ヵ月ほど入院し、退院後は和田博実二軍監督が彼の青白い顔とやせ細った体を「しょぼくれた菜っぱみたい」と評したことから、「ナッパ」と愛称を付けられる[1]。, エースの東尾修にはノーサインで投げてもらって組み立ての基礎を学び[2]、6年目の1977年に一軍に定着。同年のオールスターにも初出場し、7月23日の第1戦(平和台)では7回裏に鈴木孝政からソロ本塁打を放つ。1978年も正捕手として活躍するが、1979年に田淵幸一・古沢憲司との大型トレードで、真弓・竹之内雅史・竹田和史と共に阪神タイガースへ移籍した。, 阪神では、移籍1年目の小林繁と名バッテリーを形成し、小林とは普段も一緒で「王さんには上げた右ヒザを狙ってスライダーを投げよう」とか話したこともあった[2]。強肩の捕手であったが、移籍1年目の同年は1960年の野村克也とタイとなるシーズン17個のパスボールを喫した。そのうちの14個が江本孟紀の投じたエモボールであり[3]、スパイ対策のためにノーサインで江本の球を受けたことによるものである[4]。, 同年はキャリア唯一のダイヤモンドグラブ賞も受賞し、打撃でも初の規定打席到達で打率.303を記録するなど阪神の主力選手となり、オールスター4年連続出場(1979年 - 1982年)も果たすなど阪神でも正捕手として活躍するものの、移籍4年目の1982年に、女優の白川和子との不倫交際が取り沙汰されると、首脳陣と衝突して出場機会を減り、オフに自由契約となり退団した。, 阪神退団後は渡米し、当時メッツ傘下3Aのタイドウォーター・タイズに特命コーチとして加入し、1983年シーズン途中まで務めた。, 1983年シーズン途中に帰国し、横浜大洋ホエールズに入団。当時の大洋は捕手の高齢化が進んでいたため、若返りを図る意味から獲得に踏み切った。移籍3年目の1985年には自身唯一の全試合出場するなど、大洋でも正捕手として活躍した。同年、3年ぶりの出場となったオールスターでは7月21日の第2戦(川崎)では2回表に佐藤義則から先制2ラン本塁打を放ち、山内一弘に続いて史上2人目の両リーグ本塁打を達成している。, 実用英語技能検定1級を所持し、アメリカでコーチをするなどの語学力を活かして、大洋時代は巨人のレジー・スミスやウォーレン・クロマティをよく挑発していた。スミスに対しては「顔面スレスレのビーンボールを多用する」→「激怒したスミスが若菜に砂を掛ける」→「その報復としてさらにビーンボールが多用される」といった悪循環もあったが、1980年代後半にはクロマティとの駆け引きで有名になり、バッターボックスで口論になっていた。遠藤一彦がクロマティを三振にとってチェンジになる際、遠藤と若菜は2人で頭を人差し指で指し"頭脳の差"というアピールをし、クロマティの怒りを誘っていたが、「犬猿の仲」というわけではなく、OBオールスター戦で若菜とクロマティが同じチームでプレイすることもよくあった。, 1987年8月4日の巨人戦(横浜)では、ホームに返球されてきたボールがバウンドして、うまい具合に若菜の左脇に挟まり、そのまま捕球した体勢でランナー・中畑清とクロスプレーとなり、あたかもタッチしたと見せ掛けたプレーで刺殺を取った。この「若菜の空タッチ」はフジテレビ「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」で採り上げられ、曲者の若菜を象徴するプレーである。, 同年に古葉竹識監督が就任して以降は出番が減少し[2]、1988年オフにはついに不満が爆発。公然と球団批判を展開していたという情報があり[5]、今回は首脳陣との衝突にとどまらず、チームメートをも揶揄[2]。1989年1月5日に謝罪文を提出して一旦決着も、シーズン開幕後、1985年から1986年まで大洋で指揮を執っていた近藤貞雄監督に誘われ、無償トレードで日本ハムファイターズへ移籍した[2]。, 近藤監督は若菜を「チャンスに強い打撃。チームの雰囲気をガラっと変えるキャラクター。田村(藤夫)は超一流のキャッチャーだが、年齢の事を差し置いても、若菜は一流のキャッチャー」[6]と評した。, リーグを代表する捕手だった田村藤夫の控え捕手としての在籍だったが、移籍2年目の1990年には首脳陣に「酒井光次郎をモノにしてくれ」と頼まれ、左腕でカーブがいい酒井を大洋時代の新浦壽夫への組み立てを思い出してリードし、酒井は10勝を挙げ、新人王を争った[2]。同年に加藤初が引退し、当時の現役選手としては最後の西鉄ライオンズ在籍経験者となった。, 引退と同時に吉本興業とマネジメント契約[7]し、1992年から1996年まではラジオ関西解説者を務めた。, 1997年からは福岡ダイエーホークス一軍バッテリーコーチに就任し、同時に吉本興業とのマネジメント契約を解消。コーチ時代はロッテを経てFAで加入した田村と共に若手の城島健司を指導し[2]、城島を二人三脚で育てたことで知られる[8]。, なかなか捕手としての技能が向上しない城島を巡って王貞治監督とたびたび衝突し、就任1年目の1997年のオールスター期間中、王から城島のリードや捕球のまずさを叱責され、王は一塁手か三塁手へのコンバートを示唆した。若菜は反論したが、球団に辞任を申し出たこともある。若菜は東京の自宅に戻っていた王に電話を入れたところ、電話に出た王夫人はあえて王と代わらずに「主人から話は聞いています。お仕事に口を挟むようで申し訳ないのですが、今、あなたと主人との板ばさみになって困るのは城島君ではないでしょうか。お電話のことは主人に私からお伝えしておくので、もう一度考えてみてください」と上手くとりなした。王にも若菜が謝罪していると伝え、これにより両者は和解することができ、城島もコンバートせずに捕手として成長していった。事の真相を若菜が夫人から聞かされたのは、ダイエーが初優勝した1999年のハワイへの優勝旅行の時だったという[9]。, 2年連続リーグ優勝と1999年の日本一を貢献したが、2001年9月30日の近鉄戦(福岡D)[注 1]前のバッテリーミーティングで、王のシーズン本塁打記録55本に並んでいたタフィ・ローズに対し「近鉄に優勝されるわ、監督の記録は抜かれるわじゃ申し訳が立たない。外国人に抜かれるのは嫌だ。王さんは記録に残らなければならない人。ローズに積極的になるな」と発言したと報道された事が物議を醸した(後述)[10][11][注 2]。なお、ローズはこの日新記録達成のため「1打席でも可能性は多い方がいい」という梨田昌孝監督からの計らいで、この日はいつもの打順である3番ではなく1番スタメンで出場したが、結果的にダイエーバッテリーはローズに対して全18球中僅か2球だけしかストライクを投じず[注 3]まともに勝負をする事は無かった(試合自体は近鉄が12-4で勝利)[10][11]。この件に関して10月1日にはNPBコミッショナーがフェアプレーを求める異例の声明を発表し、さらに翌2日にはパ・リーグ会長がこの件でホークスに厳重注意処分とした[12]。同年シーズン限りでダイエーコーチを退任した。, 2002年から2007年までをTVQ九州放送解説者、2009年からはFBS福岡放送解説者となる。また、ソフトバンク球団制作中継(J SPORTS→日テレプラス→FOXスポーツ&エンターテイメント→スポーツライブ+)にも解説を行うほか、FBSの『めんたいワイド』や『バリはやッ!ZIP!』にもコメンテーターとして出演し、2003年よりスポーツニッポン西部本社→東京本社西部総局評論家も務めている。日本ハムOBということもあり、2007年には1年だけSTVラジオ解説者も務めた。, 上述の通り、2001年9月30日の対近鉄戦にて、王のシーズン本塁打記録55本に並んでいたローズに対して露骨な敬遠策を指示したとされているが、後年のインタビューによると若菜は「ある記者に『個人的な考えとしては、子供たちの目標になるとすれば、どうせ抜くのなら日本人選手がいい』と言ったことがいろんな方向で大きくなっただけ」と述懐しており、加えて「そもそも一コーチが『歩かせろ』なんて指示は出せませんよ。決定権は監督にしかない。あとはバッテリー。結局どういう考えだったのか、あのバッテリーでないとわからないですよ。ただ、雰囲気としてはあったと言えます。周りが何となくわかっていたと思いますよ。気を遣わないほうがおかしいでしょ」と敬遠の指示は明確に否定しつつも、「方向性」の存在は感じたという旨を述べている[13]。また、若菜によれば自身以外にも「満塁でローズだったらどうしたらいい?」と聞くと「それでも勝負しないほうがいい」と言うコーチもいた他、この日先発として登板した田之上慶三郎には最高勝率のタイトルがかかっていた[注 4]という事もあり、簡単に「打たれる覚悟で勝負しろ」とは言えない状況だったという[13]。, なお、この騒動から約12年後の2013年シーズンに注目された、当時東京ヤクルトスワローズに在籍していたウラディミール・バレンティンのシーズン最多本塁打記録更新の話題に関しては「(記録を)抜いてほしいと思ってるよ。今回は誰も気を遣う場面はないもん。早く王さんの呪縛を取ってもらわないと。もう50年もたってるんだから、破られないほうがおかしいでしょう。どこかで終止符を打たないと、ずっと言われるから」と寛容な姿勢を示していた[13]。その後、バレンティンは2013年9月15日の対阪神タイガース戦(神宮)において日本プロ野球シーズン本塁打新記録となる56号を放ち、見事記録を更新した(最終的には日本プロ野球史上初のシーズン本塁打60本台を記録している[14])。, 因みに記録の当事者である王は試合前にローズへ「60本打てよ」と笑顔で激励しており、寧ろ記録更新に対しては前向きな姿勢を示していた。また前述のミーティングに王は参加していなかった。, この日のローズの総合成績は2打数0安打2四球(第1打席・2打席目は四球、第3打席目は遊飛、第4打席目は二ゴロ)だった。, 最終的に田之上は勝率.650を記録してこの年のパ・リーグ最高勝率を記録した(ただし、1973年から2001年まではセ・パ両リーグ共に「最高勝率」はタイトルとしての表彰からは外れているため、公式記録上の「最高勝率投手」として選出されたのみである)。, セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.5 [1989年編] (, 週刊ベースボールONLINE|野球コラム 若菜嘉晴 筋金入りの気の強さを誇る強肩強打の捕手/プロ野球1980年代の名選手, “日めくりプロ野球 9月【9月30日】2001年(平13)“バースの悲劇”再び…ローズ、苛立ちの2打数無安打2四球”, https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0709/kiji/K20080928Z00002590.html, “プロ野球デキゴトロジー/9月30日 55本塁打タフィ・ローズとダイエーバッテリーは勝負せず【2001年9月30日”, http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170930-11, “今だから明かす“記録阻止”の闇真実(2)ローズ「やっぱり俺は外国人なんだ」と思い知った”, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=若菜嘉晴&oldid=80442920, 太平洋(太平洋クラブライオンズ)は、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)に球団名を変更.