山本ふみこさんのうふふ日記

2007年〜2012年 Tweet, 友だちから小包が届き、函を開けるとなかに、赤い実が見えた。 なんだろう、なんの実だろう。 とり出してみると、実を抱く枝の根元を湿らせたペーパーで巻くという、やさしいしごとのあとがある。 知っている赤い実の名前を、端から云ってみる。「ヤブコウジ。モチノキ。ナンテン。マンリョウ。センリョウ。ゴミシ……」 ……やっぱりわからない。 友だちの手紙を小包の函のなかから探しだして読むと「ガマズミが赤くなりました」とあり、手のなかの赤い実がガマズミだとわかった。「ガマズミを手にするのは、生まれて初めて!」「ガマズミを送ってもらうは、生まれて初めて!」 小包のなかには、一輪挿しが坐っている。 青い……、いやもっと正確にこの色に迫ろうとするなら、「鉄納戸(てつなんど)」とか「鉄御納戸(てつおなんど)」というのが近いだろうか。尾崎紅葉や芥川龍之介の小説に登場する茄子の色、単衣(ひとえ)の色である。 北関東の山里に暮らす陶芸家の友だちの作品なのだ。 ことしの春の窯とのことだ。「こんなうつくしい青を近くでみるのは、生まれて初めて!」「友だちの手になる一輪挿しは、生まれて初めて!」 と、またまたうかれる。 この日はいちにち「生まれて初めて! 生まれて初めて!」とうかれて過ごし、寝る前にガマズミを生けた一輪挿しの前に立った。「この歳になっても生まれて初めてがあるなんて。ありがとう、ありがとうございます」 こう云ってみたときだ。 おやおや? と頭のなかに風が巻いた。 おやおや、そうだろうか。 生まれて初めては、きょうのこれだけではないのだわ。 この歳になったいまのわたしも、これまでのわたしも、これからのわたしも、常に「生まれて初めて」を生きてきて、生きて、生きてゆこうとしている。 常にわたしは生まれて初めての道を、生まれて初めて歩いてゆく。 初めての道を照らす灯(ともしび)を探しながら。 どうですか?うつくしい青、妙なる一輪挿し。面取の花瓶。「毎日が生まれて初めて」「生まれて初めての一瞬一瞬」ということをおしえてくれました。, 2020年10月27日 (火) 日記 | 固定リンク

山本 ふみこ(やまもと ふみこ、本名・山本 富美子、1958年 11月26日 - )は、日本の随筆家。 北海道 小樽市出身 。 自由学園最高学部卒。出版者勤務をへて文筆家。武蔵野市教育委員会委員。. | コメント (23)

| コメント (29) いつか魔法使いに会ったら、器におかずを届け合える魔法をかけてもらおう。, 2015年6月 9日 (火) 日記 | 固定リンク 山路 ふみ子(やまじ ふみこ、1912年〈明治45年〉3月13日 - 2004年〈平成16年〉12月6日)は、女優・実業家・社会事業家。 兵庫県 神戸市 長田区出身。 本名・大久保 ふみ子(おおくぼ ふみこ)。

山本 薩夫(やまもと さつお、1910年 7月15日 - 1983年 8月11日)は、日本の映画監督である。 鹿児島県出身。 早稲田大学 文学部独文科中退。 甥たち(兄山本勝巳の子)が、俳優の山本學、山本圭、山本亘で、自身の作品への配役も多い。 息子の山本駿、山本洋も映画監督。 東京都武蔵野市在住。

Tweet, 「ひとりで家に閉じこもったりしないで、友だちをつくってください。若いひとでもお年寄りでも」  6月20日に映画「愛を積むひと」が封切られた。 公開にさきがけて、この作品に寄せて新聞に2本のエッセイを書いた。広告の意味合いがあったけれど、「ほんとの感想しか書かないぞ」と誓って、試写を観る。 じつにいい映画だった。 登場する人物ひとりひとりにリアリティがある。配役が的確ということになるのだろう。静かな、そして濃厚な125分を過ごした。 第二の人生を大自然のなかで送ろうと、東京下町の工場(こうば)をたたみ、北海道(美瑛町)に移って来た夫婦、篤史と良子。見るからに愛情あふれるふたりだが、来し方には苦労の日日があり、悲しみがひそんでいる。そんな事ごとを浄化して、これまでとは異なる受けとめ方をしようとするかのような静かな暮らしがはじまる。育まれ見守られてきた庭のハマナス。ベーコンとバター入りのおみおつけ。結婚以来妻の誕生日に夫が贈りつづけた一粒の真珠の連なり(ネックレス)。そしてそして、長年の憧れだった石塀作り。 いろんなかたち、いろんな大きさの石がひとつひとつ積まれてゆくように、夫婦のあたらしい時間はかたちを成してゆく。けれど、それは長くつづかなかった。数年前から患っていた心臓病によって、良子がこの世から旅立ってしまったのだ。 そう、冒頭の妻からの手紙を夫は、この世に残された悲観のなかで受けとったのだ(生前綴られた手紙が幾通も、大事なモノのなかにひそんで、みつけ出されるそのときを待っている)。 この映画の、大切なテーマのひとつである手紙。 手紙がこの世とあの世に隔てられた夫婦のあいだをつなぐのである。そうして、それは光を放って、周囲をも照らす。 映画公開初日の舞台挨拶で、篤史を演じた佐藤浩市が涙を流した。 良子役の樋口可南子が代読した妻からの手紙が、そうさせたのだ。 舞台上で読み上げながら樋口可南子も涙するほど清清しい手紙は、こう結ばれていた。「浩市さん、わたしは浩市さんをひとりにしないように、浩市さんよりも1日でも長く生きることを、約束します」 映画のなかの妻のように、死を覚悟したとき、夫に手紙を残してゆくようなことを、わたしはできるだろうか。もし書けたとしても、「お風呂にちゃんと入ってください」とか、「わたしの荷物はすっかり片づけて、こじんまり・こざっぱり暮らしてください」とか、「ぬか漬けとヨーグルトはつづけたらどうかな」とか……。つまらないことを書いてしまいそうだ。 この世にあって、あとどのくらい便りができるかしら。友だちや、娘たちや、師や、仕事仲間への手紙。夫への置き手紙も、そのうちかもしれない。 そう考えながら、友だちに書いたはがきに、思わずわたしはこう書いていた。「ユウコチャン、(手紙は)長くても短くてもいいことにしよう。書きかけもいいことにしない?」※ 「愛を積むひと」 監督:朝原雄三 脚本: 朝原雄三 福田卓郎  原作:『石を積むひと』エドワード・ムーニー・Jr  出演:佐藤浩市 樋口可南子 北川景子 野村周平     杉咲花 吉田羊 柄本明ほか, わたしの仕事場は、居間の一部に棚を隔てて在ります。向こうには台所も見えています。このほど、机右側に、コルク版をはめこむことに成功しました。映画「愛を積むひと」のチラシ、貼ってみました。, 2015年6月23日 (火) 日記 | 固定リンク 2007年〜2012年 ここは、小さな広場です。 そっと訪ねてきて休憩することも、ことばを残すこともできます。 お茶のかわりに、わたしの日記のような綴方を置いておきます。 「ふみ虫」はわたしの印であると同時に、手紙や文章の「文」の意味。 「泣き虫」は涙、いと深いところから湧いてくるものの意味。 著書 『元気がでる美味しいごはん』晶文社 1994 「元気がでるふだんのごはん」講談社文庫

| コメント (34) | コメント (62) Tweet, 気がつけば、しばしば「テンネン」ということばを受けとるようになっていた。 初めてのときには、かすかにあたふたしたけれど、それが愉快方面のものなのか、不愉快方面のものなのか、たしかめることもしなかった。それはたぶん、不意をつかれて、受けとった「テンネン」なる音に漢字を当てはめ損なったからでもある。 天然? 天燃? 天粘? 天念? 天年? あれは40歳代の終わりだった。 友人の息子のRクンに「テンネン」と決めつけられた。彼は高校生で、わたしのほうを見て、「山本さんて、テンネンですね」と云ったのだ。検証の機会到来、とわたしは思った。「Rクン、いまテンネンって云ったね。それは何なの? 当てはめる漢字は『天然』よね。それは何なの? ……天然果汁100%っていう感じ?」(ここで、わたしは高校男子にあはは、とやられる。あはは、あはは)。「笑ってないでおしえて。わたし、ときどき云われてきたの。天然と」。「天然ボケとか、天然キャラとか。一部、そのひとの勘違いとか非常識の要素も含まれているかな。『天然』を天然果汁100%と思っちゃうところとかです。だけどそれにしたって、場を和ませるような類いのものなんです。愛すべき天然キャラ」 なるほどそうか。 初めて天然、とやられたとき、わたしをあたふたさせたものはこれだったのね。ボケ。わたし、ボケてるんだわ。 そう思ったら、何だかほっとしてしまった。人生の道の上で張りつめることも、凍りつくことも、頑なになることもあった。行きがかりで、悲壮感を抱くことすらあって、わたしはそれを抱いたまま何かを探してさすらってもきたけれど、天然ボケであったおかげで、いつしか楽観に転じることができたのかもしれない。 道の端に紫陽花が咲いていた。「アナタ方も、天然?」 と聞いてみる。「ええ、ワタシたち、ホンモノの天然です」 福井県在住の友人から、蓋つきの器が届きました。越前焼きの陶芸祭りでみつけてくれたもの。なんて、うつくしい……。 蓋をとると、なかはこんなです。ふと、友人も同じものを持っているのかしら、と考えています。 ピーマンを炒め煮にして、器にそっと入れました。友人のところにある同じ器のなかに、これが届くといいのになあ。 Tweet, つぎの年の手帖と予定表をもとめる季節がめぐってきた。 いそいそと出かけてゆき、いそいそではあるけれども、毎年おんなじものをもとめる。ことしもまた。 無印良品の月曜はじまりのカレンダー(ヨコ20,0×タテ14,5cm)。 同じく、A6サイズの帖面(10,5×14,8cm/A5サイズの半分)。 これを2006年から使っていて、気がつけば15冊めが終わり、じき16冊めにうつろうことになっている。 わたしの「ありのまま」の日常があらわれたカレンダーと帖面は、調べたいことがあって見返すたび、気持ちをくすぐられる。どちらも、仕事・しごと・遊び・年中行事ほかがごちゃ混ぜに記録されていて、じつにわたしらしい。 わたしはごちゃ混ぜ人間。 どの場面でも、同じ調子で動いているごちゃ混ぜ人間だ(ところどころ緊張の度合いは異なるが、それも年年たいした違いでなくなってきている)。 そうして突如として2021年の予定表(カレンダー)と帖面をさすり、もの想いするわたし。 ……会えない誰かを思うことがふえた。 遠くにいて会えないあなた。 事情が許さず会えないあなた。 離れ場ならになって以来、行方知らずで会えないあなた。 あの世とこの世に隔てられ、会えないあなた。 きっとこれから先も、そんな「あなた」はふえてゆく。 2012年、初めてカルチャーセンターでエッセイの講座を持ったとき、忙しい仕事をやりくりして1期だけ参加してくれたケーコさん。 1期が終わったとき、カードをくださった。「エッセイを書いてみよう」 参加させていただきましてありがとうございました。 参加しなかったら、生まれなかった原稿が4本、財産として残りました。 つぎの期は残念ながら出席できませんが、「今ごろ新宿で山本さんが黒板に言葉を書いている」と、講義の日には思い浮かべることにします。「今ごろアラスカでは熊が森を歩いている」と都会で思い浮かべるのは2つの時間を生きることだと星野道夫が言ったみたいに。では、またの再会を。 ね、素敵な手紙でしょう? わたしはいつもこのカードを帖面にはさんで持っている。「2つの時間を生きられますように」と希って持っている。 会えない「あなた」を思いながら、そっとカードを読み返す。 いま、ガマズミは、こんなふうになっています。このたびの器も、友人の手になるもの。木の器で、エゴマのオイルを塗って仕上げてあるとか。これには水は入れません。見ているだけで、力とやさしさを注がれるのです。, 2020年11月 3日 (火) 日記 | 固定リンク