古関裕而は山田耕筰の弟子ではありませんが、西洋音楽を日本に浸透させるという意味で、古関は山田を継いでセミクラシックの分野を開拓した人なのかなあと思います。 こんにちは〜chikuwaです! こんにちは~chikuwaです! いよいよ新しい朝ドラ「エール」が始まりましたよね。 そして、「エール」では小山田耕三の役を志村けんさんが担当していたということが話題になっていましたよね。 小山田耕三のモデルになったのが今回、調べた山田耕筰という人物です。 Copyright (C) 2019 NYANTA All Rights Reserved. シンガーソ... こんにちは~chikuwaです! RANASOLという人物を知っていますか? Copyright © CyberAgent, Inc. All Rights Reserved. 古関 裕而(こせき ゆうじ、 1909年〈明治42年〉8月11日 - 1989年〈平成元年〉8月18日)は、日本の作曲家。本名は古關 勇治(読み同じ)。妻は声楽家で詩人の古関金子。 緊急事態宣言が終わってもまだ本調子でない毎日。自粛生活のストレスを音楽を聴いたりこのブログを書いたりして紛らせています。, シュテファン寺院の地下にはペストで亡くなった人々のおびただしい数の白骨が未だに埋められていました。, 昨年3月にウィーンを訪れた時、ペストは昔の話としか思いませんでしたが、今回の新型コロナを見ると、医療が発達しても同じようなことが起こることがよく分かります。, いつの日か、世界中に「新型コロナ記念柱」が立つ日まで、一人一人がストレス解消法を見つけながら息長くがんばりましょう!, NHK朝の連続テレビドラマ「エール」を録画で観ています。今回は音楽がテーマということで、いつも以上に関心を持っています。, 主人公の古関裕而(1909~89年)の名前は知りませんでしたが、戦前から東京オリンピックあたりまで幅広く活躍した作曲家で、早大応援歌「紺碧の空」、タイガース応援歌「六甲おろし」、「オリンピック・マーチ」などよく知っている曲が多くあることに驚きました。, もともとクラシック系でしたが、コロムビア専属になって歌謡曲も含めた幅広い作品を作った人です。, クラシック音楽を日本に根付かせようと奮闘しながら、一方で日本らしい愛唱歌を多く残しています。古関をコロムビアに紹介した人で、「エール」では新型コロナで亡くなった志村けんさんが演じて話題になっています。, 私が二人を結び付けて考えるようになったきっかけは軍歌です。山田が多くの軍歌を作った話は聞いていましたが、古関も「露営の歌」(貴様と俺とは同期の桜~)など誰もが知っている軍歌を作っています。彼らは戦前戦中戦後の社会においてどのような役割を演じたのでしょうか…?, 古関と同世代で古関と同じコロムビア専属作曲家だった彼は、クラシック系の古関とは対照的に明大マンドリン部出身の根っからの大衆音楽系。古賀メロディーで日本人の心の琴線を揺さぶります。, 古賀の出身地は私が勤務していた福岡の近くの大川。古賀政男記念館を近くに見ながら「古賀メロディーは古いよなあ」などと当時は思っていました。, ともに5千曲を作曲したと言われる古関と古賀。ふたりの活動はどう違い、どう交わるのでしょうか。, 朝ドラ「エール」で古関裕而のことを知って最近買った2枚組CDです。歌謡曲、スポーツマーチ、番組主題歌から軍歌まで、38曲がオリジナル録音を中心に詰まっています。発売元はもちろん日本コロムビア。, マーチや応援歌は、作曲のツボを押さえた素晴らしい職人技。デパートの閉店時にかかる「蛍の光」「アニー・ローリー」の編曲やNHKの番組テーマ曲もまさに職人技です。, 「長崎の鐘」などの歌謡曲や、彼が一躍メジャーになった軍歌は、古賀メロディほど「日本人の心をわしづかみにする」のではなく、さりげなく心の琴線に触れる感じですね。, ところで、「露営の歌」にせよ「若鷲の歌」にせよ、昭和の軍歌ってなぜ短調で悲壮感漂う歌が多いのでしょう?勇壮な「軍艦マーチ」は明治の古い歌ですし…。古関によれば、兵隊さんたちは短調の曲を好んだとのこと。短調の軍歌はまさに兵隊さんたちの悲壮感そのものだったのかもしれません。, ・山田耕筰作曲 長唄交響曲「鶴亀」、交響曲「明治頌歌」、舞踏交響曲「マグダラのマリア」, これは20年ほど前、香港のNAXOSレーベルが「日本作曲家選輯」シリーズを出した時に興味を覚えて買ったものです。, ・山田が傾倒したというリヒャルト・シュトラウスの交響詩を思い出させる「マグダラのマリア」(1916)→, それが単に西洋音楽の受容の発展段階なのか、満州事変(1931)→日中戦争(1937)→太平洋戦争(1941)へと突入していく社会・政治情勢と山田の立場を反映したものでもあるのか、私には分かりません。, 3人はそれぞれの個性を発揮しながら音楽表現を続け、戦争という大きな流れに巻き込まれながらもやっぱりそれぞれの役割を演じています。, 最年長の山田はドイツに留学し、西洋音楽を学んで「日本人初の交響曲」を作曲。日本に戻って本邦初のオーケストラを作ります。彼の作風は次第に日本風になり、唱歌や童謡も作曲します。古賀は明大に入学、古関は銀行に就職します。, 古関はイギリスの音楽コンクールに入賞し、コロムビアに入社。しかし、作品は早稲田大学の応援歌くらいでした。コロムビアに後から入った古賀は音大生の藤山一郎の歌で大ヒットを連発。二人には差がつきます。, 山田は作風がますます日本化。古関は「船頭可愛や」でやっと初ヒット。「六甲おろし」はこの時期の作品です。古賀は藤山とともにテイチクに移り「東京ラプソディ」などがまたヒットしました。, 山田は日本の西洋音楽受容の総まとめとも言うべき日本初のグランドオペラを発表。時局柄軍歌も作っています。古関は軍歌「露営の歌」が大ヒットし、軍歌や戦時歌謡で人気作曲家としての地位を確立します。古賀は「人生劇場」をヒットさせますが、国策映画の音楽も作っています。, 山田は戦時色の強いカンタータや軍歌を作り、戦時下の「日本音楽文化協会会長」に就任します。古関は引き続き軍歌や戦時歌謡で存在感を示し、古賀も戦時歌謡を作るなど、音楽界も戦争一色の時期です。, …福島トリオの作品。前奏は戦後のNHKスポーツショー行進曲とそっくりの長調で始まるがすぐに悲愴な短調に変わり、途中で一瞬長調で盛り上がるがすぐに短調に戻る。断末魔の叫びと未来への希望が明滅するような不思議な作品。, ※YouTubeで見る時は「伊藤久男・歌」をお聴きください(春日八郎バージョンはアレンジが違います)。, 山田は終戦直後の戦争責任論や病気もあり作品は減少。古関は菊田一夫と組んで戦後復興のNHKラジオドラマで活躍したほか、スポーツ曲、マーチ、かつて古賀の盟友だった藤山一郎の歌う歌謡曲等で活躍。古賀は引き続き古賀メロディーでヒット曲を連発します。, 古関は菊田一夫と組んだ舞台劇の音楽に取り組みます。古賀は村田英雄や美空ひばりに古賀メロディーを提供してヒットを継続し、日本作曲家協会会長に就任。二人の活躍はオリンピック(古賀は五輪音頭、古関はオリンピックマーチ)の後まで続きます。, 古関裕而は山田耕筰の弟子ではありませんが、西洋音楽を日本に浸透させるという意味で、古関は山田を継いでセミクラシックの分野を開拓した人なのかなあと思います。, 古関のクラシック音楽は殆ど聴くことができませんが、NHKの「らららクラシック」で彼の室内管弦楽曲「亡き愛児に捧ぐる歌」の演奏を聴きました。フランス風の色彩的な音楽でした。クラシックの道に進んだら、武満徹(フランス系の音ですよね)のような巨匠になったのでしょうか。, 古関の歩んだ道はクラシックではなくもっと庶民的でしたが、最後は菊田一夫と組んで東宝ミュージカルに取り組み、「二人の夢は日本のオペラを作ることだった」という人もいます。, 日本に西洋音楽を持ち込み初のグランドオペラを作った山田耕筰は、「日本人に合うのは理知的な交響曲ではなく情に訴える声楽曲だ」と考えていたそうです。その魂は、「庶民のオペラ」とも言われるミュージカルの礎を作った古関に受け継がれたともいえると思います。, マーチとか舞台音楽とか、割に大掛かりで構成が重要な音楽の中に魅力的なメロディを盛り込む「バランスの古関」。日本人の心の襞の奥底に入り込むようなコード進行とメロディで涙と笑いを誘う「情の古賀」。, 古関の音楽はピリッと背筋を伸ばして歌い、古賀の音楽は仕事帰りに屋台に肘つきながら聴く…そんな違いでしょうか。, デビュー当時に作曲された古関の「紺碧の空」と古賀の「影を慕いて」がその違いを象徴的に表しています。, 時代の流れに伴い、いわゆる「ど演歌」古賀メロディーがやや古く(懐かしく)なるのに対し、より西洋風の古関作品が色褪せない印象はありますが、優劣とはまた別だと思います。, 古賀メロディーとか演歌も決して純粋日本音楽ではなく、日本人の情念を西洋音楽の楽器やハーモニーで表現した「大衆音楽の西洋音楽化」だったのでしょうね。, 一般人が軍事教練に駆り出されるように、作曲家には国策遂行のための音楽が求められるのは自然の成り行きという面もあると思います。ただ、どういう立場でどこまで積極的にやるかは本人次第でしょう。, 「日本人には情に訴える声楽曲が合う」とする山田は、戦時色の強いオラトリオ(どこで演奏し誰が聴いたのでしょう?)も多く作曲しました。国策団体である日本音楽文化協会会長にも就任し、彼が憧れたリヒャルト・シュトラウス(ナチスドイツの帝国音楽院総裁)と似たような立場になった訳です。, しかし、「露営の歌」「予科練の歌」など軍歌で有名なのはやはり古関でしょう。古関はなぜ軍歌で一躍メジャーになったのでしょうか。, 古関は軍歌だけでなく、応援歌、戦後のラジオテーマソング、マーチなど、人を鼓舞する音楽を多く作っています。だから「エール」なのかな。, 応援歌、マーチ、軍歌…古関はどちらかというとリズムをきちんと刻む音楽が得意だったのかもしれませんね(そこはドビュッシーなどのフランス系クラシックというよりはドイツ系のイメージです)。しっとりまったり系の古賀とは対照的です。, その中で、古関の戦時歌謡「愛国の花」は軽やかなワルツ風の清楚・静謐な異色の名曲で、今聴いても感動します。戦後に東南アジアで流行ったというのも分かる気がします。, 戦地に赴く兵隊さんを鼓舞する軍歌を作る時の気持ちはどんなものだったのか…。上にも書きましたが、戦争末期1944年の「嗚呼神風特別攻撃隊」には戦後の平和を希求するような響きも垣間見られます。, 今回のブログを書くにあたって古関の作品をちょっと調べて思ったのですが、舞台音楽の記録を追いかけるのは結構大変です。, ネットには「菊田一夫と組んで東宝で数多い舞台音楽を作曲」などとありますが、題名が分かったのは、年表に挙げた「敦煌」「放浪記」「蒼き狼」「津軽めらしこ」ほかいくつかだけです。題名は分かっても、ほとんどの場合、どんな音楽か分かりません。YouTubeでNHK番組のミュージカル「香港」の音楽を聴いたくらいです。, 舞台の音楽は再演されない限りお蔵入りになってしまいますが、菊田・古関が積み重ねた東宝ミュージカルのお客さんがその後のミュージカルファンに育っていったのでしょう。, 東宝ミュージカルの土台の上で、菊田一夫が日本初のブロードウェイ・ミュージカル「マイ・フェア・レディ」を上演したのが1963年。1965年の「サウンド・オブ・ミュージック」では古関が音楽監督を務めたという記述も見かけます。, 私が小さい頃、テレビでミュージカルの断片を見て、しゃべっていた人が突然歌い出したり踊り出したりして珍妙なものだなあと思いました。今のミュージカル・ブームを見ると隔世の感があります。, 現在、ミュージカルに活力をもらう人はとても多いでしょう。古関の目指したクラシックの技法と人を鼓舞する音楽がここで結びついているように思います。, 朝ドラ「エール」で興味を持った古関裕而を中心にあれこれ調べて書いてみましたが、今まで知らなかったことが結構多くて楽しめました。, 西洋音楽が氾濫する今、それを受容し日本的なものと融合させ、今日の基礎を作った人たちに思いを寄せるのも、「エール」の見方として面白いと思います。, それとともに、こうして築き上げられてきた音楽を今現在担っている人たちが、新型コロナで大変な打撃を受けていることを考えると、我々ひとりひとり何ができるのか考えなければ、と思います。, ・若き古関が目指した「世界的なクラシック作曲家」というと、日本では武満徹(1930~96)でしょうか。古関より20年ほど若く、彼も古関同様ほとんど独学で作曲を学んだそうです。琵琶や尺八の「ノヴェンバー・ステップス」、いいですね。, ・このCDは、冒頭紹介した山田耕筰の長唄交響曲CDとほぼ同じ2001年頃に買ったもので、NAXOSの日本音楽シリーズの第1作でした。, ・山田の弟子で指揮者として有名な近衛秀麿(1898~1973)が編曲した「越天楽」(1931)は、オーケストラによる日本の古典文化の紹介であり、ストコフスキーも録音したそうです。, ・古関の5歳下の伊福部昭(1914~2006)はほとんど独学で作曲を学び、本場西洋の模倣が多かった当時から日本民族主義的な作風です。映画「ゴジラ」の変調子(7拍子?)による厳格で不気味な音楽が有名です。, ・芥川也寸志(1925~89)は芥川龍之介の三男でテレビ等でもよく顔を見ましたね。同世代では、團伊玖磨(日本でおそらく最も有名なオペラ「夕鶴」を作曲)、黛敏郎(「題名のない音楽会」の司会、東京オリンピック映画の音楽も担当)なども有名です。, ・山田の言うとおり、日本人がソナタ形式の交響曲などを作っても面白くないと思いますが、形式から解放された現代音楽では日本人の情緒や感性が発揮しやすいし、日本のオケも現代音楽の方が反応がいいと思います。現代音楽こそ日本の出番!?, ・古関裕而がイギリスに留学して純粋クラシック界に入ったらどんな大作曲家になっていたか分かりませんが、私も含め多くのリスナーにとっては、コロムビアに入ってもらってよかった…ということでしょうね。. TWICEの弟分である『Stray Kids』がテレビに出演... こんにちは~chikuwaです! 女優で、加藤茶の... こんにちは〜chukuwaです! 中川大志という俳優さん これは北原白秋のざれ歌のような詩に作曲した歌で、北原白秋は大いに気に入り、山田耕筰も褒めたという曲ですが、残念ながらヒットという訳には行きませんでした。 アルバイトはバレましたが、なんとか退学はまぬがれ、藤山一郎は最優秀の成績で卒業し、クラシックを歌うときは本名で� 古関裕而さんの幼少期. 日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。 日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。