史記による略歴 [編集] 恥辱 [編集]. - 紀元前284年?)は、中国戦国時代の弁論家。張儀と並んで縦横家の代表人物であり、諸国を遊説して合従を成立させたとされる。, 洛邑の人。斉に行き、張儀と共に鬼谷に師事し、縦横の術を学んだ。数年間諸国を放浪し、困窮して帰郷した所を親族さえも嘲笑され、発奮して相手を説得する方法を作り出した。最初に周の慎靚王に近づこうとしたが、蘇秦の経歴を知る王の側近らに信用されず、失敗した。次に秦に向かい、武王に進言したが、受け入れられなかった。当時の秦は商鞅が死刑になった後で、弁舌の士を敬遠していた時期のためである。, その後は燕の昭王に進言して趙との同盟を成立させ、更に韓・魏・斉・楚の王を説いて回り、戦国七雄のうち秦を除いた六国の間に同盟を成立させ、六国の宰相を兼任した。この時、韓の襄王を説いた際に、後に故事成語として知られる「鶏口となるも牛後となることなかれ」[注 1]という言辞を述べた。, 趙に帰った後、粛侯から武安君に封じられ、同盟の約定書を秦に送った。以後、秦は15年に渡って東に侵攻しなかった。蘇秦の方針は秦以外の国を同盟させ、それによって強国である秦の進出を押さえ込もうとするもので、それらの国が南北に縦に並んでいることから合従説と呼ばれた。, 合従を成立させた蘇秦は故郷に帰ったが、彼の行列に諸侯それぞれが使者を出して見送り、さながら王者のようであった。これを聞いて周王も道を掃き清めて出迎え、郊外まで人を出して迎えた。故郷の親戚たちは恐れて顔も上げない様であった。彼は「もし自分にわずかの土地でもあれば、今のように宰相の印を持つことができたろうか」と言い、親族・友人らに多額の金銭を分け与えた。, 合従解体後は燕に仕えたが、国内での立場が微妙になったために斉に移った。その目的は斉の国力を弱め、燕の利益を図ることにあった。斉では湣王に取り立てられたが、そのため対立者により暗殺されてしまう。蘇秦は死ぬ直前に湣王に対して「私が死んだら私の遺体に対し車裂きの刑に処し、『蘇秦は燕のために斉で謀反を企てた』としてください。そうすれば私を殺した者が出てくるでしょう」と言った。湣王は蘇秦の遺言に従うと、蘇秦を殺した者が自首してきたので捕らえて処刑した。, 張儀列伝によると、張儀を秦に送ったのも蘇秦の魂胆で、秦による趙への出兵を張儀に止めさせる狙いがあった。, 上記は『史記』によるものだが、後世の研究において矛盾が指摘されている[1]。たとえばこの時期に、趙の君主は王号を称していなかった。また秦の進出も魏までに留まっており、それより東方の燕や斉には秦の脅威は及んでいなかった。, 司馬遷が『史記』を執筆した時代は蘇秦より200年以上後であり、また秦の始皇帝の焚書坑儒によって大量の資料が失われていた。そのため秦の記録と趙世家だけが司馬遷の依拠した資料であり、東方の情報が欠乏していた。そこで秦での張儀の活動については詳しくわかるが、東方で活動した蘇秦については事績が曖昧になった。さらに司馬遷自身が「世間では蘇秦の異聞が多く、異なる時代の事件をみな蘇秦の事績に附会している」としている。従って司馬遷は蘇秦の事績の復元を乏しい資料によって行ったのだが、その編集を誤ったと考えられている。, 1973年、湖南省長沙市の馬王堆漢墓から、『戦国縦横家書』(日本語訳:工藤元男 朋友書店 ISBN 9784892810336)という司馬遷の時代より古い書物が発見された。これに基づいて蘇秦の事績は大幅に修正された。, 蘇秦は張儀よりも後の時代に活躍した人であった。その時代、斉は燕の領土を奪い、秦と並ぶ二大強国となっていた。そこで諸国はこの2国のどちらと同盟するかという対応に迫られた。また燕は斉への復讐を企てていた。この時に燕に登用されたのが蘇秦であり、斉への使者となった。さらに斉でも外交官となって合従のために奔走するが、実は燕のために斉と趙の離間を図っていた。その結果、まず紀元前288年に燕・斉・趙・韓・魏の5国が合従して秦を攻めたが、5カ国連合軍は退却した。次に紀元前284年には今度は燕・趙・魏・韓・楚の5カ国が合従して斉を攻撃し(済西の戦い)、燕は復讐を果たすのである。, 『淮南子』詮言訓では「公孫龍粲於辞而貿名、鄧析巧辯而乱法、蘇秦善説而亡国」と列記され、その智謀(弁論術)がかえって国をほろぼした例として批評されている。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=蘇秦&oldid=80039156. 蘇 秦(そ しん、? キングダムで描かれた六国合従軍ですが、実は李牧以前に、六国を合従させ秦と対抗した人物が春秋戦国時代にいました。 その人物の名は「蘇秦(そしん)」。 李牧が行ったのは秦を滅ぼすための合従でしたが、蘇秦が行ったのは「秦を封じ・・・ - 紀元前309年)は、中国戦国時代の縦横家・政治家。魏の人。蘇秦と共に縦横家の代表的人物とされ、秦の宰相として蘇秦の合従策を連衡策で打ち破り、秦の拡大に貢献した。, 張儀は若い頃、蘇秦と共に鬼谷子に学び、その後諸国を遊説したが、中々受け入れてもらえず、楚の大臣に従って宴会に出た時には窃盗の疑いをかけられ袋叩きにあったことまである。傷だらけの張儀は妻に対し「舌はまだついているか?」と聞き、ついていると返答されると「舌さえあれば十分だ」と答えたと言う。, その後も不遇だった張儀はすでに趙で出世していた蘇秦を頼って行った。しかし予期に反して大いに侮辱されたため、発奮した張儀はこの屈辱をばねに秦に仕官する事が出来た。だが、この時仕官に必要だった資金は蘇秦がひそかに出したものだった。燕と趙を同盟させた蘇秦は、張儀が秦で出世して同盟が定着するまで趙を攻めないよう秦王に働きかけさせるためにわざと張儀を侮辱したのである。人からその話を聞いた張儀は感じ入り「蘇君が在命のうちは自分にはなにもできない」とへりくだった。, 張儀はその後、魏を討ち、上郡・少梁を獲得した功績で宰相となった。しかし魏が斉に接近するようになると、魏に仕官して魏の宰相となり、このまま秦に攻撃されても他国が頼むに足らないことを説き、秦と魏の同盟を成立させることで連衡を成功させ、再び秦の宰相となった。この際、かつて張儀を袋叩きにした楚の宰相に対し、「あなたはかつて私を疑い、ひどい目にあわせたが、今度は本当にあなたの城を奪ってやる。」との文を送りつけたと言われている。, 紀元前316年、蜀に内紛が起きたのでこれに乗じるべきかと恵文王に問われた時に張儀は韓を攻めて、周を恫喝し、天下に号令すべきと説いたが、恵文王は司馬錯の献言に従い蜀を占領した。, 紀元前313年、張儀は対楚工作に入り、楚に対し商・於の地六百里四方を割譲するから、斉との同盟を破棄して欲しいと申し入れた。楚の懐王は喜んでこれに応じ、斉との同盟を破棄して、将軍に秦に領土を受け取りに行かせたが、張儀は六里四方の土地を割譲すると言った。これに楚の将軍は約束は六百里だと猛烈に抗議するが張儀はとぼけて相手にしなかった。, 懐王は大いに怒り、秦に対し出兵したが、大敗する(藍田の戦い)。その後、秦から楚に土地を割譲する事で和睦しようという交渉が持ちかけられたが、懐王は「土地など要らぬ。張儀の命が欲しい」と言い、これに答えて張儀は楚に行った。張儀には生還する策があった。懐王の寵姫に人を使って「秦は張儀の命を救うために懐王に財宝と美女を贈るつもりです。もしそうなったらあなたへの寵愛はどうなるでしょうな」と言わせ、不安に思った寵姫は懐王に張儀を釈放する事を願ったので懐王は張儀を釈放した。こうして張儀は強国である斉と楚の同盟を崩した上で楚を叩き、和睦にも成功することで合従を崩した。, その後、恵文王が死に、張儀とは不仲であった太子蕩が即位し武王となった。張儀は誅殺を恐れ、策があるからと言って魏に逃げ、魏の宰相となって一年後に没した。, 上記は『史記』によるものだが、後世の研究において蘇秦の記述について矛盾が指摘されている。1973年、湖南省長沙市の馬王堆漢墓から、『戦国縦横家書』(日本語訳:工藤元男 朋友書店 ISBN 9784892810336)という司馬遷の時代より古い書物が発見された。これに基づいて蘇秦の事績は大幅に修正されたが、それによると蘇秦は張儀よりも後の時代に活躍した人であった[1]。, 樛斿 • 張儀 • 楽池 • 樗里疾 • 田文 • 楼緩 • 魏冄 • 燭寿 • 范雎 • 蔡沢 • 呂不韋 • 杜倉, 樗里疾(右)と甘茂(左) • 甘茂(右)と屈匄(左) • 向寿(?) • 金受(?)と魏章(?) • 金受(?) • 楼緩(?)と金受(?) • 羋戎(左) • 徐詵(?) • 昌平君(?) • 昌平君(右)と昌文君(左) • 昌平君(右)と隗状(左) • 隗状(右)と王綰(左) • 馮去疾(右)と李斯(左) • 趙高(中), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=張儀&oldid=79011325. 史記による略歴 恥辱. photo credit: Macro Mondays: Red – Raspberry Splash via photopin . 張儀は若い頃、蘇秦と共に鬼谷子に学び、その後諸国を遊説したが、中々受け入れてもらえず、楚の大臣に従って宴会に出た時には窃盗の疑いをかけられ袋叩きにあったことまである。 傷だらけの張儀は妻に対し「舌はまだついているか? 生麦事件を起こした奈良原喜左衛門、スイカ売りに化けて英国艦へ斬りこみも実行していた!. 張儀は若い頃、蘇秦と共に鬼谷子に学び、その後諸国を遊説したが、中々受け入れてもらえず、楚の大臣に従って宴会に出た時には窃盗の疑いをかけられ袋叩きにあったことまである。 傷だらけの張儀は妻に対し「舌はまだついているか? (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); キングダムの舞台が紀元前250年ごろなので、李牧の合従軍の80年ほど昔のことになります。, (ちなみに漫画の中で説明されていた、斉への合従軍侵攻は、李牧の合従軍と蘇秦の合従軍のちょうど真ん中あたりの出来事), 当時、秦は孝公と呼ばれる王の時代で、商おうと呼ばれる法家を登用して軍事国家としての基盤を強めた時期でした。, 蘇秦は貧しい農民の出ながら、弁舌だけを用いて六国の王や宰相を説得し、六国合従を実現しました。, その合従軍は、李牧の時のように秦へ侵略こそしませんでしたが、合従ののち15年間、秦は函谷関から侵略出来なかったと言います。, その功績は大きなもののように感じられますが、蘇秦は後継者を残すことなくその学問も禁じられます。, それまでいた燕から、わざと追放された形にするように言ったのは蘇秦ですが、そもそもその動機が燕で犯した罪を逃れるため。, こうした経緯から、蘇秦の存在は合従の功績に関わらず嫌われ、蘇秦にまつわる言い伝えも悪意に満ちたものが多いと言います。, 蘇秦は遊説家としてまだ芽が出ない頃、妻や妾を含む一族全員から才能の無さを笑われたと言います。, そうした気持ちが強すぎて、大きなビジョンが無かったことが後世に語り継がれる人物になれなかった原因かもしれません。. 以下は『史記』蘇秦列伝における事跡である。 洛邑の人。斉に行き、張儀と共に鬼谷に師事し、縦横の術を学んだ。数年間諸国を放浪し、困窮して帰郷した所を親族さえも嘲笑され、発奮して相手を説得する方法を作り出した。最初に周の顕王に近づこうとしたが、蘇秦の経歴を知る王の側近らに信用されず、失敗した。次に秦に向かい、武王に進言したが、受け入れられなかった。当時の秦は商鞅が死刑になった後で、弁舌の士を敬遠していた時期のためである。 その後は燕の昭王に進言して趙との同盟を成 … 張儀は「分かった」と頷き、趙の国を見物しながら時間を潰します。 蘇秦から屈辱的な扱いを受ける. Sponsored Link

キングダムで描かれた六国合従軍ですが、実は李牧以前に、六国を合従させ秦と対抗した人物が春秋戦国時代にいました。, 李牧が行ったのは秦を滅ぼすための合従でしたが、蘇秦が行ったのは「秦を封じ込める」ための合従でした。. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 蘇秦の用語解説 - 中国,戦国時代の政治家,縦横家。前5~4世紀頃活躍。洛陽の人。秦の恵王に仕えようとして失敗,燕に行き合従 (がっしょう) を説き (→合従連衡 ) ,趙,韓,魏,斉,楚の6国同盟を成功させ秦に対抗したが,張儀の連衡策に敗れた。 張儀列伝によると、張儀を秦に送ったのも蘇秦の魂胆で、秦による趙への出兵を張儀に止めさせる狙いがあった。 史記の記述における矛盾 [ 編集 ] 上記は『史記』によるものだが、後世の研究において矛盾が指摘されている [1] 。 今回は、秦の軍隊の御話。 以前綴った記事 「春秋時代の部隊の編制単位」 の補遺でして、 年末年始に読んだ本のまとめでもあります。 色々と文献を漁るうちに 誤記の発見や書くべきこと等が累積しまして、 そうしたものが、 ひとつの記事に出来る程に溜まったと言いますか。 因みに、今回の記事の主なタネ本は、 稲畑耕一郎監修、劉煒編著、伊藤晋太郎訳 『図説 中国文明史4』 蘇秦と張儀は同じ先生に教えを受けた同窓ですが、先に世に出たのは蘇秦です。 蘇秦は洛陽の人でした。 はじめ遊説に出たときは誰からも相手にされず、失意のうちに帰郷すると、親族を含めみんなからバカにされました。

張儀は約束通り、再び蘇秦の家を訪れます。 蘇秦は張儀を家の中に招きますが、家の外に座らされます。

張 儀(ちょう ぎ、? 「張儀の策謀は蘇秦よりもはなはだしかったが、世間が張儀より、むしろ蘇秦を憎むのは、蘇秦の没後、張儀が蘇秦の短所を宣伝暴露して、自己の遊説を有利にし、連衡を成就したからである。これを要するに、この二人は、真に危険な人物である。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); Copyright (C) 2020 挑解釈!戦国時代・江戸時代 All Rights Reserved.