二つの本の内容の大きな違いがあったら教えてください, 江戸時代に外様大名家の次男以降など身内から、隣村の旗本領の名主ではない百姓の家に入り、その家の家紋も主人が大名家の定紋か裏紋に変えたという話しが実際ありますが、身内が百姓家に入ることって珍しいですか?

(江戸時代), 大名家と同じ名前だけど大名家とは関係ない上杉さん、武田さん、前田さんなどは沢山いらっしゃいますが、家康から続く徳川家とは何の関係も無い「徳川さん」っていらっしゃるのでしょうか? 関が原以降の大名の区別で 【外様/外方】 伊達、山内は関ヶ原時は豊臣家の家臣です。 江戸幕府においていわゆる親藩・譜代・外様と呼ばれた大名たちのうち、譜代大名の定義についてまとめてあります。 攻城団ブログ - お城や歴史のおもしろくてためになる記事がいっぱい!

歴史関連書籍・創作指南本を多数刊行。近年は福原俊彦名義で時代小説も発表している。, 犬山城マイスター!たかまる。は、お城をこよなく愛する『お城ナビゲーター』です。

にもっていこうと乗りかかったのですよね? 同じ譜代大名でも、家康の父祖の時代、三河の時代、駿河の時代、という具合で

こういった扱いをしている。

幼少より岐阜城を眺めながらすくすく育つ。 上記2家以外にも、安芸の浅野、備前の池田、阿波の蜂須賀、筑前の黒田、肥後の細川などがすべて秀吉に臣従して関ヶ原以前に家康に通じていた大名である。, #1さんも書いてますが、関ヶ原「以前」という言葉が曲者で、これは「関ヶ原の役に東軍についた家」とういう意味ではなくて、「関ヶ原の役(および前哨戦)よりも前から家康の家来だった家」の意味のようです。 江戸城の詰間の記録や徳川実紀等の資料で判断したと思います。

また、旗本、御家人、大名家の家臣も同様なのでしょうか? 討伐軍の留守を狙い, 大変参考になりました。 関ヶ原の時に東軍についてもそれ以前は徳川と主従関係がなければ外様なのです。, Copyright ©2020 OKWAVE, Inc. All Rights Reserved. 当然古参であればそれだけ重臣として扱われるわけです。, 【親藩】 岡山池田家→ 池田動物園の園長。妻は今上天皇の妹 徳川家に臣従した時期によってさらに家格が分かれているようです。 1999年(平成11年)からウェブプランニング、ゲーム企画に関わる。2000年(平成12年)より、IT・歴史系ライターの仕事を始め、その後はフリーでのウェブプランニングをおこなう。専門学校・カルチャースクールにおいて小説家・イラストレーター志望者に向けた講義もおこなっている。

長州毛利家→ 防府毛利報公会の会長 親藩(しんぱん) ... これら一門大名は家格・官位などでは優遇されたが、(将軍の親戚というだけであって譜代大名ではないので)幕政に参加することは許されなかった。ただし、保科正之は 徳川家綱の補佐役として大政参与に就任して幕政に携わったが、これは病没前の徳川家光による特例措� 名字は百姓(郷士)のです, 幕末、倒幕・佐幕に分かれて争いがありましたが、薩長を含め、外様大名と徳川家康とはなんらかの関係があったのでしょうか。 回答を寄せて下さいました皆様方に厚く御礼申し上げます。

「親藩」「譜代」「外様」とありますが、 読みましたが他にお勧めはありますか?自分は大いに ×東軍は豊臣家に対する反逆とみなされる上杉討伐軍のなかから、

【譜代/譜第】

策略で起こったのではないですよね?これを機に断絶 一覧[ 城 | 団員 ].

間違いがありましたので訂正します。 本多忠勝 10万石などです。, 原因と結果が逆です。 ★ 犬山城天守・犬山城跡の散策は通算548回以上! 土佐と言うと江戸(東京)から遠いので譜代か外様かと思うのですが、合戦前に徳川に付いていますしそうなると親藩に入るのかどちらなのかとふと思いました。 1974年、斎藤道三、織田信長が居城とした岐阜に生まれる。 地侍はどんあったのですか?ちりちりばらばら、あるいは上杉 山内豊(雍)、山内豊(策)、山内豊(熈)、山内豊(惇) 1) 鎌倉幕府以後、将軍の一門または譜代の家臣でないこと。また、そのような武家・大名。

国宝犬山城天守のある愛知県犬山市に居を構えたのをきっかけに、2016年より「たかまる。」として活動を始め、現在に至る。 日本史の教科書には、外様大名の概念として関ヶ原以降徳川家に服属した大名家若しくは武将と書かれていますが、仙台の伊達や土佐の山内は明らかに東軍に属していたにも拘わらず外様扱いされているのはなぜでしょうか? 投稿日時 - 2010-01-24 12:12:00.

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%96%E8%AD%9C%E4%BB%A3%E5%A4%A7%E5%90%8D 1) 鎌倉幕府以後、将軍の一門または譜代の家臣でないこと。また、そのような武家・大名。 もしこの記事を気に入っていただき、今後もこうした記事を読みたいと思っていただけたならご支援いただけますと幸いです。お預かりした支援金はすべて攻城団の運営のために使用させていただきます。, また攻城団のことを広く知っていただくために、SNS等でどんどんシェアしていただけるとうれしいです。, あなたもこのブログに記事を書いてみませんか。オリジナルの記事なら大歓迎ですし、あるいはご自身のブログに書いた訪問記の転載でもかまいません。歴史をテーマにした内容であれば広く受け付けています。, 広く歴史をテーマにしたブログです。あまり堅苦しく考えず、楽しく歴史を学べる内容を投稿していきます。, 攻城団のアカウントをフォローすれば、SNS経由で最新記事の情報を受け取ることができます。(フォローするのに攻城団の登録は不要です), 攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 土佐藩を支配した山内侍は、それまでの支配者長曽我部侍 譜代とは家康のもともとの家臣でそれ以外は全て外様で、関ヶ原前後に臣従した大名である。 えっ!逆じゃん? 徳川慶喜家→ カメラマン だから信じられる奴は

それとも以前は豊臣秀吉に味方していたと言う事で譜代または外様でしょうか? 徳川も豊臣家の家臣ですね。 あなたも誰かを助けることができる 大名家が滅んだところ、あるいは縮小、移封などの場合の

親藩、譜代、外様.

伊達宗(贇)、伊達村(候)、伊達宗(城), 司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」には、関ヶ原の戦い後に 関ヶ原を境にしているということでした。 大学院卒業後、姫路城で日本100名城スタンプ帳を購入して以来、本格的にお城にハマる。

他の大名はどうだったのでしょうか。, 徳川家将軍継承者だけに許された字なのでしょうか? 氏のように全員転居した?

一番興味があるのですが大坂の陣直後に改易をされた 親藩、譜代、外様 2010/01/24 12:12 日本史の教科書には、外様大名の概念として関ヶ原以降徳川家に服属した大名家若しくは武将と書かれていますが、仙台の伊達や土佐の山内は明らかに東軍に属していたにも拘わらず外様扱いされているのはなぜでしょうか? 以前薩摩の治水工事の物語を有線で耳にした事があり。 主な大名家が知りたいです。とは言っても豊臣家に

2) 代々同じ主家に仕えること。また、その家系。 動画アーカイブ  ○東軍は豊臣家に対する反逆とみなされる上杉討伐軍のなかから、 加賀前田家→ 石川県人会連合会の会長 知っているのは、加賀・前田家はかつて前田利長が徳川家康の恫喝に屈し、母まつを人質に出すという屈辱がありましたが、幕末時の前田家の当主の母はかつての将軍の孫、つまり徳川家康の子孫であるので、積極的に幕府を戦おうとしなかったことぐらいです。。 間違いがありましたので訂正します。

ちなみに伊達騒動は大坂の陣からかなり歳月が経って 日本史の教科書には、外様大名の概念として関ヶ原以降徳川家に服属した大名家若しくは武将と書かれていますが、仙台の伊達や土佐の山内は明らかに東軍に属していたにも拘わらず外様扱いされているのはなぜでしょうか?, 8です。 勝者がその領地に乗り込んだのは土佐だけではなかったはず。

広島浅野家→ ? 福岡黒田家→ 不動産会社の社長 通報する. 近年の不況を受けて、真剣に現在の社会を見つめ直... 中学、高校と海外にいたので日本史を全く習っていません。 尾張徳川家→ 徳川美術館の館長で本職はプログラマー 3) 「譜代大名」の略。親藩や外様以外を言います。 宇和島伊達家の例 紀州徳川家→ 女性建築家 ただ、関ヶ原の戦いで改易になった大名家はたくさん存在し、 よろしくお願いします。 譜代とは家康のもともとの家臣でそれ以外は全て外様で、関ヶ原前後に臣従した大名である。 お知らせ  もし穴山梅雪や武田信親(梅雪の子)が生き永らえていたなら、かつては仇敵であったにも拘わらず一門並(親藩大名)の扱いをうけていたのかもしれませんね。, 私が過去に参考にした書物などでは譜代と外様の区別は いらっしゃらないのであれば、理由は何でしょう? 庶民にまで氏名が与えられたのは明治に入ってからですよね? 「時の最大権力者に遠慮した」というわけではないと思うのですが。 外様大名になれなかった武将の配下の武士たちが、

譜代は関ヶ原以前に徳川の家臣だった大名。 徳川も豊臣家の家臣ですね。 あなたもQ&Aで誰かの悩みに答えてみませんか?, http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%96%E8%AD%9C%E4%BB%A3%E5%A4%A7%E5%90%8D. こういった扱いをしている。 詳しい方、教えてください。, 私が過去に参考にした書物などでは譜代と外様の区別は 山内家の例 その後、武士の身分を失った人たちもいたのでしょうか? また、豊臣家は滅亡したのでいらっしゃらないと思いますが、織田さんはいらっしゃるのでしょうか? 伊達や山内が東軍に属しても、徳川家とは家系が関係ないから外様です。, 伊達や山内は秀吉に恭順して家の安泰を許された武将です。 その主人公でもある山内一豊は最終的に土佐の土地をいただく事になりますが、関が原の合戦開始前に徳川に見方をしている事を考えると大名の分類としては親藩に当たるのでしょうか? 日本史の教科書では、外様大名は関ヶ原以降徳川家に服属した大名家若しくは武将と書かれていますが、仙台の伊達... 中学の日本史について教えてください。 公益財団法人 犬山城白帝文庫 会員 2) 組織の中などで、主流でなく、傍流の立場にあること。また、その人。 「役職には原則として数名の譜代大名・旗本らがつき、月番交代で政務を扱った」 関ヶ原の東軍は徳川の家臣では無く豊臣家の家臣です。

薩摩藩は散々借財を作らされ疫病などの悲惨な環境で もし穴山梅雪や武田信親(梅雪の子)が生き永らえていたなら、かつては仇敵であったにも拘わらず一門並(親藩大名)の扱いをうけていたのかもしれませんね。, 日本史の教科書では、外様大名は関ヶ原以降徳川家に服属した大名家若しくは武将と書かれていますが、仙台の伊達や土佐の山内は明らかに東軍に属していたにも拘わらず外様扱いされているのはなぜでしょうか?, 日本史について、関ヶ原の合戦から大坂の陣にかけて どのような末路をたどったのかが、気になります。, 「骨は語る 徳川将軍家・大名家の人びと」がほしいと思うのですが、「骨が語る日本史」も徳川家の人たちのガイコツの写真が入っていてほとんど同じ内容のような気がします。 東軍の留守を狙い、伏見城を攻撃した石田三成を豊臣家の の一人が自害するオチだった気がします。この物語は 1) 代々その家系が続いてきていること。また、それを記したもの。系譜。 公益財団法人 日本城郭協会 会員 ★ ほぼ毎日、犬山城の写真を撮り続けて1249日以上!, 攻城団のような小さな会社がおもしろいコンテンツをつくりつづけるためにはみなさんのサポートが必要です。 愛知県犬山市を拠点に、2016年より犬山城やお城に関する活動を独自に、そして精力的に展開しています。 土佐山内家→ ?

全国の幕末300藩について、各藩の藩主と石高、将軍との関係(親藩、譜代、外様)及び戊辰戦争時の諸藩の対応状況に、今回訪ねた京屋敷地(〇印)も付け加え、国別に取り纏めています。 ここで、幕末に起きた政治的大事件について少し触れると、長年続いた江戸幕府の鎖国下、嘉永6年(1853 全ての大名は家康に臣従したわけですが、そもそもの出自が家康の家臣であるものと、独力で領地を切り取ったり秀吉に領地を与えられた家の違いがあります。, #1ですが補足です。 徳川家が、豊臣の一家臣扱いの段階で部下だったものが譜代というような言い方のほうがわかりやすいです。, 教科書の記述はほとんど出鱈目です。 日本人として日本の歴史の基本くらいわからないと恥... 徒然にというか、うとうととしながら、ふと、幕末・維新を動かしたエネルギーは一体何だったのか?という疑問... http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%96%E8%AD%9C%E4%BB%A3%E5%A4%A7%E5%90%8D. 関が原以降の大名の区別で 気になるメディアがあったらぜひフォローしてください。, 自分のメディアは自分で育てる。 他の大名家には、見当たらないと思うんですが。 伊達、山内は関ヶ原時は豊臣家の家臣です。 譜代大名、外様大名とは言っても親藩大名とは言わないと 家康が幕府を開いたため他の大名と同格・あるいはそれ以上の扱いを受けましたが、もともとは家康から領地を与えられたものが中心で、そもそも独立した存在ではありません。 1) 代々その家系が続いてきていること。また、それを記したもの。系譜。 とあり... 国持ちや中堅クラスの譜代・外様大名についてですが、同じ石高(例えば表高十万石)だと外様大名の方が極官・詰... 日本史の教科書で出てくる代表的な村は、鎌倉時代後期の惣(惣村)と、江戸時代の村方三役や本百姓らによって運... 日本史の問題で分からないところがあります。 関ヶ原の東軍は徳川の家臣では無く豊臣家の家臣です。 誰かの疑問に誰かが答えることでQ&Aが出来上がり、後で見に来たたくさんの人の悩みの解決に役立てられています。 東軍の留守を狙い、伏見城を攻撃した石田三成を豊臣家の

この連載では、日本城郭検定準一級の知識を活かし、お城の基礎をあなたと一緒に勉強したいと思います。 徳川の家臣は徳川家255万石の中から禄をもらっている武将で例えば を警戒しての政策なのでしょうか? 現役高校生が使用する教科書をみんなで読みつつ、疑問点や事前に調べてきた関連情報を披露しあう勉強会です。攻城団の団員であればどなたでも参加できますので、興味のある方は専用ルームをのぞいてみてください。, また過去の勉強会を収録した動画も販売していますので、じっさいの様子をご覧になりたい方はこちらの見逃し配信チケットを購入の上、ご視聴ください。, 戦国武将の菩提寺めぐり&御朱印集めに最適な御朱印帳です(といっても中身はふつうの御朱印帳です)。全10色ありますので、ご希望の色をお買い求めください!, 1977年(昭和52年)東京生まれ。 【譜代/譜第】 ★ 訪れた城跡や史跡は全国で203箇所を超える。

だから信じられる奴は にも関わらず、後々は断絶させようと目を付けられて YouTube  これが分類です。 東海道沿いは親藩、譜代大名が多いが、御三家紀伊藩、井伊家はどのような配置なのか? 中国地方の大名配置図 外様大名の長州藩、広島藩、鳥取藩、岡山藩はどのような領地を保有していたのか? ○東軍は豊臣家に対する反逆とみなされる上杉討伐軍のなかから、 【外様/外方】 2.そ... 日本史・世界史の良い教科書(一般向け)を教えて下さい。 東軍の留守を狙い

工事をする様な内容で、物語の最後は重役(家老?)

... 危険な外様大名は遠方に

東軍は豊臣家に対する反逆とみなされる上杉討伐軍のなかから、 先生に言われテストでバツになったと言うのですが。。, あなたを助けてくれる人がここにいる

東海古城研究会 会員 仙台伊達家→ 歴史研究家 あなたのお城めぐりが楽しくなっていただけたら幸いです。, 独自のメディアとして、次のものを運営しています。 家康が幕府を開いたため他の大名と同格・あるいはそれ以上の扱いを受けましたが、もともとは家康から領地を与えられたものが中心で、そもそも独立した存在ではありません。

回答を寄せて下さいました皆様方に厚く御礼申し上げます。 いた主な大名家です。 2) 組織の中などで、主流でなく、傍流の立場にあること。また、その人。 江戸城の詰間の記録や徳川実紀等の資料で判断したと思います。 ×東軍は豊臣家に対する反逆とみなされる上杉討伐軍のなかから、 これが分類です。 確かに家康の五カ国(参・遠・駿・甲・信)統治時代に配下に加わった小笠原、諏訪、保科、依田、木曾ら武田の遺臣は皆譜代大名に列せられていますし、関東転封後に臣従した後北条家の旧臣が譜代級の扱いをうけているのも十分納得がいき、謎が氷解した思いがします。 独自のものであったと書かれてます。

徳川家が天下を掌握し、江戸幕府を開く前、日本は群雄割拠の戦国時代だった。各地にさまざまな戦国大名が勢力を築き、覇権を争っていた時代だ。それぞれの大名には家臣がおり、各地域で主従関係ができ上がっていた。そうした中で、古くから徳川家(三河松平家宗家)に仕え、1万石以上の石高(米の生産量)を与えられた武家が「譜代大名」と呼ばれる。, 譜代とはそもそも「代々その主家に仕えること。また、その臣下」(『広辞苑』第五版)という意味を持つ言葉だ。大名とは、1635年(寛永12年)に発布された『武家諸法度』(武士や大名の守るべき法律)において「(徳川家)一門の歴々、1万石以上の石高を持つ国主および城主」と定められた。江戸時代の大名にとって、主家は徳川家しかない。ゆえに、代々徳川家に仕えてきた大名が譜代大名となったのだ。これに該当しない大名は、対義語を用いて「外様大名」と呼ばれる。原則として、織田家や豊臣家に仕え、徳川家と同列の立場にあった大名は譜代大名とはされない。また、関ヶ原の戦いが一つの目安となっており、それ以前から徳川家に仕えていた者を譜代、そうでない者を外様としている。, ただし、これはあくまで原則であり、江戸幕府が開かれた後から仕え始めた譜代大名もいれば、徳川家とのつながりによって外様から譜代に変わった場合もあった。淀藩・稲葉家は外様大名である豊後の稲葉家の庶流にあたる家だが、稲葉正成の妻が3代将軍・家光の乳母を務めた春日局であったことから譜代大名となり、以後代々の当主が幕府で要職を占めている。また譜代大名と外様大名の間での婚姻は自由であり、意外と両者はまったく隔たれた存在というわけでもなかったようだ。, 譜代大名はもともと徳川家の子飼いの部下だった者たち――「十八松平(十四松平)」と呼ばれた家康の同族たちもここに含まれる――の子孫であり、外様大名と比較して「徳川家臣」としての性格が強い。老中や若年寄など、幕政の中心を担う役職には基本的に譜代大名しか就けなかったのは、この流れからして当然といっていいだろう。彼らは転封によって領地が変更されることがよくあった。幕府にとって要所となる土地とその周辺は、できるだけ譜代大名で固めておきたい。そこに外様大名がいる場合はなおさらで、ときには言いがかりに近い理由で外様大名を改易し、譜代大名を配置することもあった。, 表向きの石高は小規模なものが多い。実際、加賀藩の前田家(102万石)や薩摩藩の島津家(77万石)など、譜代大名よりはるかに高い外様大名が各地にいたが、徳川家は自分たちの手足となって働いてくれる譜代大名を政治の中心におき、幕政を安定させたのである。外様大名はいくら石高が高く、力が強かろうと――いやむしろ力が強いからこそ、幕閣への道は閉ざされていた。, 江戸時代は高度な地方自治が成立していた時代であり、中央政権である江戸幕府が地方自治体である諸藩に過度の干渉をすることは少なかったが、一方で諸藩が中央政権の専権事項である諸外国との外交(江戸時代は鎖国体制とはいっても、オランダ、中国、朝鮮。そしてロシアとの間には明確に交流・外交関係があった)などに口を出す権利もまたなかったのである。この点において、譜代大名と外様大名の間には歴然とした格差があったわけだ(ごく一部に、外様大名が幕閣に登用された例もある)。, ちなみに、徳川家の一門は基本的には譜代大名として数えない。家康の子供が創設した尾張・紀伊・水戸の御三家、8代将軍・吉宗の子孫が創設した田安・一橋・清水の御三卿に代表される徳川家の親族は「親藩」、または「家門」と呼ばれる。この中には「松平」を名乗る家も含み、2代将軍秀忠の兄・結城秀康を祖とする越前松平家、3代将軍家光の弟・保科正之を祖とする会津松平家、6代将軍徳川家宣の弟で・松平清武を祖とする越智松平家などが代表例だ。逆にいえば、家康とその父系の末裔から分かれたものだけが親藩で、松平一族であっても「十八松平(十四松平)」のような家康以前から分かれた一族や、家康の娘・亀姫を迎えて松平を名乗った奥平松平家などは譜代大名である。, また、石高が1万石未満の者も、いくら徳川家に長く仕えていようと譜代大名とはされない。彼らは「直参」とされ、将軍に直接謁見することが許される御目見以上の家格の者が「旗本」、それに達しない者が「御家人」として区別されていた。つまり、譜代大名とは広大な所領を背負うに足る力を持ち、徳川家から信任されている、非常に名誉ある立場だったのだ。, 現代の私たちは単純に「譜代」、そして「親藩」「外様」と大名を分類してしまうが、実はこれらの大雑把な枠決めの中に、さらに小さいグループ分けがあった。これを一番明確に表現しているのが、「殿席」である。これは諸大名が儀式などで江戸城に登城するとき、それぞれ用意される控えの席のことだ。殿席の場所は、大名の家格によって明確な差がつけられていた。以下の通りだが、朝廷から授けられる官位の上下によっても、殿席には差がつけられていたとされる。, 松の廊下(大広間から将軍との対面所へつながる廊下。元禄赤穂事件において浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかったことで有名)に沿って設けられた、最も格の高い殿席。おもに御三家が使用していた。, 御三家以外で、特別な待遇を与えられた大名の殿席。松平の名乗りを許された加賀藩の前田家や、将軍家と姻戚関係を持った薩摩藩の島津家などが特別に使用した。, 会津松平家や高松松平家などの家格の高い家門や、彦根藩の井伊家など譜代大名の中でも特に重用された有力大名が使用した。また、平時には幕閣の最高位に当たる老中の経験者がここに詰めていた。こうした人々は「溜間詰」「溜詰」などと呼ばれ、幕府の政治顧間のような役目を担っていた。, 家門と有力な外様大名のための殿席。外様大名の中でも国持(一国以上の領地を治める者。国主とも)か、それに準ずる従四位下以上の官位を持つ者が、この部屋の使用を許された。官位が低くても、後に昇進すれば大広間を使用することができた。二之間と三之間に分かれており、石高・家格の高い者を基準に御目見順に並ぶことが慣例となっていた。, 古参の譜代大名のための殿席。古来御譜代(古くから徳川家の譜代だった家)の席ともされる。部屋の奥に、中国の理想の君主像が描かれていたため、帝(君主)鑑(手本)の間と呼ばれた。名高い徳川四天王(井伊、榊原、本多、酒井)の家のうち、別格というべき溜間を使用する井伊家を除く三家もここを控えの間としていたことからも、この帝鑑間の格の高さがよくわかるのではないだろうか。, 外様大名のための殿席。従五位下以下の官位など、他の間に入れない外様大名が使用した。, 譜代大名のための殿席。城主(居城を持つが、国持でも親藩でもない)格の譜代大名が使用した。帝鑑間と区別して、御取立之御譜代(後から徳川家に取り立てられて譜代となった家)の席ともされる。雁間も溜間のように、平時にも譜代大名が詰めていた。こうした大名は「詰衆」と呼ばれ、幕政の中心を担う存在だった。老中などの要職は雁間を使用する譜代大名から多く輩出されている。, 城主に満たない家格の譜代大名のための殿席。ここも御取立之御譜代の席とされる。城を持たない陣屋大名と呼ばれる譜代大名が使用した。菊間縁頬にも平時に譜代大名が詰め、「詰衆並」と呼ばれていた。彼らは詰衆よりも下位の幕閣として、幕政を担っていた。, その部屋の使用を許された者以外は、入室が禁じられた。逆に言えば、家格が類似していれば同じ部屋で何度も顔を合わせるということで、そこから結びつきが生まれるようなこともあったようだ。, 攻城団では不定期で「日本史の知識をアップデートするための勉強会」という勉強会をオンラインで開催しています(Zoomを使用したビデオミーティング)。