Cloudflare Ray ID: 5f26bca68cdad8ed 1: 名無しさん 2016/05/29(日) 00:11:13.27 ID:VkXYMPqv0 ただ、「ヤクルトは早い段階で消えていたんですよ」と亡き父・重衛さんから直接、番記者として聞いたことがあった。 横浜中華街での会食の席。「なぜって、ヤクルトの担当スカウトがある時に、長嶋さんの悪口を言 と言うには英語で何と言えば良かったですか?, エリザベス女王杯2020日刊スポーツ大阪伊嶋さんの予想を知りたいのです。あとオカダさんの本命もわかればよろしくお願いいたします。.

ドラフトの注目選手で栗林選手が中日ドラゴンズファンと言っていましたがカープが指名しました。faで中日になる可能性もありますが、過去に〇〇ファンと公言し、他球団に指名されてそのままfaでも残留宣言をした選手 はいますか? 江川事件(えがわじけん)とは、1978年のドラフト会議前日にプロ野球セ・リーグの読売ジャイアンツとの電撃的な入団契約を結んだ投手・江川卓の去就をめぐる一連の騒動である。江川問題(えがわもんだい)、江川騒動(えがわそうどう)、空白の一日(くうはくのいちにち)とも言われる。, 1973年、江川卓は作新学院のエースとして、ノーヒットノーラン9回・完全試合2回、春の甲子園における大会通算最多奪三振記録など、数々の記録を残して日本中の注目を浴びた。プロ球団の目に止まるようになるが、江川と父親の二美夫は大学へ進学しプロへは行かないと明言[1]。また進学先として慶應義塾大学を希望していることも明らかになった。, 1973年11月20日、ドラフト会議が東京・日比谷の日生会館にて行われ、阪急ブレーブスが1位で江川の独占交渉権を獲得[2]。当時のドラフトはくじによって球団の指名順位を決定する「変則ウェーバー方式」であった。ドラフト1位指名では、指名順位上位だった大洋ホエールズ、南海ホークス、近鉄バファローズ、日本ハムファイターズ、中日ドラゴンズは、進学希望の江川の指名を回避して別選手を指名、阪急は指名順位6番目だった。なお、このドラフトにおける巨人の指名順位は10番目だった。, 江川はドラフト会議が終了した後、午後3時過ぎから作新学院にて記者会見し、「プロへは全く行く気がなかったので、阪急から指名されたといっても関係ありませんよ。だからスカウトの方にも会うつもりはありません」[3]「出来ればセ・リーグの球団。それも巨人に指名されて断りたかった」[3]等と語った。報道陣が過去に大学進言を公言しながらドラフトで指名されると翻意してプロ入りした太田幸司、仲根正広らを挙げて問うと「ぼくは違います。たとえ親がスカウト攻勢にくずれたとしても、ぼくが反発する」[3]。なぜそこまで頑ななのかと問われると「自信がないから。それに何かまた可能性が残されているような気がするので大学へ進みたい」と答えた[3]。, 21日、阪急は球団代表の渓間秀典とスカウト部長の丸尾千年次が栃木県小山市の江川の自宅を訪問。江川は高校の授業のため不在で、父親の二美夫が応対したが大学進学の意思は変わらず、交渉は今回限りにして欲しいと申し出た[4]。阪急は冷却期間を置き、12月7日に丸尾が小山市の江川宅を訪問[5]。江川本人も二美夫も不在で母親の美代子しか居なかったがそれを承知の上での訪問だった。丸尾と美代子は約40分間話し合ったが、美代子は大学進学の意志は変わらないと伝え、交渉は進展しなかった[5]。, 丸尾は翌1974年1月1日の元旦の朝午前6時50分、江川宅を訪れ玄関のインターホンを鳴らしたり玄関から「江川さん!正月のあいさつに参りました」と呼び掛けたが応答は一切なく、約2時間後に引き揚げた[6]。5日、丸尾は梅田の阪急電鉄本社にオーナーの森薫を訪ねこれまでの交渉を報告し、江川の進学の意志が固いことから交渉を断念することを申し入れて了承され、阪急は江川との交渉を正式に断念した[7]。, 江川は2月18日に慶應義塾大学の法学部政治学科、19日に文学部、20日商学部の3学部を受験。だが23日法学部政治学科の第一次、3月2日の文学部、そして6日の商学部の合格発表に名前はなくすべて不合格となった[8]。7日、法政大学第二法学部政治学科を受験し、13日に合格[9]。法政大学に進学することになった。, 法政大学では1年目から六大学野球のエースとして活躍し、通算47勝(史上2位)、完封数17はリーグ記録、ベストナインにも6度選ばれ、通算奪三振数443個(当時1位)などの記録を残す。大学4年となった1977年11月に野球部の活動を終了。, 11月9日、江川は元衆議院議長で母校の作新学院の理事長兼院長の船田中を訪問し、4年間の大学野球生活の終了を報告するとともに、来たるドラフト会議後のプロ球団との交渉を一任することを要望し、船田も快諾した。ところが、船田は19日に東京・平河町の船田事務所にて記者会見し、「江川君は巨人を強く望んでいる。身柄を一任されている私としては、本人の希望をかなえさせてあげたい」「指名がくじ引きであることは承知している。各球団が話し合って善処してほしいと期待している」と語り、希望球団は巨人であること、さらに他球団には江川の指名を回避してほしいと表明した[10]。, 船田が巨人を逆指名した事に対し、プロ野球界からは「船田さんがどんな大物政治家であろうが、仮に総理大臣であろうが、その発言や意思に野球界が動じるわけがない」(コミッショナー・金子鋭)[11]、「江川家の意向を述べるだけなら、それは自由だ。しかし、それがドラフトで他球団を拘束することにはならない。意向を述べることも自由なら、指名することも自由だ」(セ・リーグ会長・鈴木龍二)、「船田さんの政治的発言がどうあろうとプロ野球にドラフトというルールがある以上、通用しません」(中日球団代表・中川清)、「あくまでドラフトの趣旨があるんだし、事前にはどういうべき筋合いのもんではない。ルールを崩すわけにはいかない」(南海球団代表・森本昌孝)などと反発の声が出た[12]。, 11月22日、ドラフト会議が東京・九段下のホテルグランドパレスにて午前11時より開催され、今回も4年前と同じくくじによって球団の指名順位を決定する「変則ウェーバー方式」であった。予備抽選ではこの年の優勝チームで日本一となった阪急ブレーブスの所属するパ・リーグの最下位、クラウンライターライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)が一番に、次いでセ・リーグの優勝チームで日本シリーズで阪急に敗れた巨人が所属するセ・リーグの最下位、大洋がくじを引き、パ・セの下位チームが交互に抽選を行った。その結果、クラウンが指名順位の1番を引き当て、巨人は2番目だった。クラウンは江川を1位指名し、巨人は早稲田大学の山倉和博を指名した。, しかし、江川は12月3日に父親の二美夫、船田、船田の秘書の蓮実進らと共に東京・赤坂のクラウンの東京事務所にオーナーの中村長芳を訪れ、入団を拒否することを伝える[13]。この後、東京・平河町の船田事務所にて記者会見し、入団拒否を正式に表明[14][15]。会見であらかじめ用意したメモを読み上げ「指名された球団(クラウン)は、関東に住む私にはなじみの薄かったこと、球団が遠隔地(九州・福岡)であるため、私の関係者が私のプレーを見られないという意見も多かった。今まで私はこれら関係者の多大な援助を受け、育ってきたので無視することができなかった」などと語った[15]。, 12月5日、クラウンの渉外部長の青木一三が早朝に船田事務所に電話し、応対した秘書の蓮実に対し会談を申し入れたが予定が詰まっているとして拒否される[16]。9日、メジャー・リーグのウインターミーティングに参加していたオーナーの中村が帰国し、赤坂の中村事務所にて青木らと共に協議し、江川側と交渉を試みることを確認[17]。12日、中村は午前に船田事務所を訪れたが船田は不在だった。このため秘書の蓮実に船田との面会を求めているとして協力を要望。しかし夕方、蓮実は赤坂の中村事務所に電話で連絡し「3日に入団を拒否することを伝えたので、改めてお会いすることはないと思う」との船田の意向を伝えた。蓮実はこの時、作新学院が10日の理事会で江川が大学を卒業後に同校に迎え入れることを決定したと伝えた[18]。, 中村は翌13日の正午、船田事務所を訪問したが船田は不在。再度、蓮実に電話で船田との面会を求めたが、拒否される。秘書の大島孝が報道陣に対し「もう船田先生も会われませんよ。中村オーナーが何度会われても同じです。船田先生に中村オーナーの意向を伝えることもないでしょうし、こちらからも連絡はしません」と説明した[19]。中村は15日午前10時に船田事務所を訪れたが、今度は船田も秘書も全員不在で会うことは出来なかった[20]。, クラウンへの入団を拒否した江川は家族会議を開き、78年11月のドラフトでの指名を目指し、卒業後1年間は"野球浪人"する事を決めた[21]。社会人野球入りは、入社後2年間は在籍しなければならないとの規則があり2年のプロ入りは長すぎるとして選択肢にはなかった。1年の野球浪人の過ごし方について、アメリカの大学の野球部に野球留学することにした。船田事務所を通じて南カリフォルニア大学の野球部と交渉し、同大にて練習生として参加することが認められた[22]。同大野球部の監督のロッド・デドーはアメリカのアマチュア野球界の指導的地位にありトム・シーバーなど投手育成に定評があり、日米大学野球を通じて江川と面識があった[22]。, 78年3月、法政大学を卒業。4月にアメリカに渡り、同大での野球留学を始めた。規定により公式戦には登板できないが、オープン戦での登板やチームの練習に参加する事を通じてトレーニングを積むことになったのである。, 1978年10月12日、クラウンライター・ライオンズの運営会社である福岡野球株式会社は国土計画に球団の経営権を譲渡し球団名を「西武ライオンズ」に改め、本拠地を福岡県の平和台球場から、同社が現在埼玉県所沢市に建設中の新球場に移転することを発表。11月12日に新たに球団社長になった宮内巌(西武グループ総帥堤義明の番頭格)が渡米、江川とロサンゼルスにて入団交渉を行ったが、江川の翻意はなかった。西武は11月20日、池袋の球団事務所にて午後5時より記者会見し、宮内は「江川君とロスで直接交渉したとき、巨人入りの意思が想像以上に強固なものと感じとった。」として、江川の獲得を断念したと正式に発表[23]。同日深夜0時をもって、西武の江川との交渉権が消滅した。, 当時の野球協約において、ドラフト会議で交渉権を得た球団がその選手と交渉できるのは、翌年のドラフト会議の前々日までとされていた。これは、会議前日まで交渉を続けた場合に、その交渉地が遠隔地だった場合に気候の急変などにより球団関係者がドラフト会議に出席できず、ドラフト会議に支障をきたす恐れがあるため、ドラフト会議の準備期間(閉鎖日)として設けられたものであった[24]。1978年において、交渉閉鎖日は11月21日だった。また、当時のドラフト対象学生は「日本の中学・高校・大学に在学している者」であり、当時の江川は社会人野球へも行かなかったため、野球協約の文言上では学生・社会人の両方でドラフト対象外であった。日本野球機構はドラフト対象の範囲を広げるため、1978年7月31日の改正によってドラフト対象選手を「日本の中学・高校・大学に在学した経験のある者」へ改正しており、江川のような浪人中のケースもドラフト会議の対象者に含まれるようになったが、この新協約は「次回ドラフト会議当日から発効する」こととなっていた。そのため、江川は後にも先にも、1978年11月21日の一日だけ、ドラフト対象規定の枠外にある、と解釈しうる状況であった。, 江川は留学先のロサンゼルスにて22日のドラフト会議の結果を聞き、26日頃に帰国を予定していた。しかし17日、船田中の秘書の蓮実が20日までに帰国するよう指示。これを受け江川は20日に成田空港着の日航機にて帰国。蓮実の運転する車に乗りこみ、東京・南青山の船田の邸宅を訪問し、船田に帰国の挨拶と留学の成果を報告。船田邸にて一夜を過ごした。, 翌21日、巨人は午前9時半より東京・平河町の全共連ビル六階の「オークルーム」にてオーナーの正力亨、球団代表の長谷川実雄、船田、江川らと共に記者会見し、江川と選手契約を結んだと発表[25]。正力、船田に続き、江川が口を開き「子供のころからの夢がかない、大変うれしく思います」等と語った[26]。, 巨人が江川との入団契約を行った根拠は、上述の通り、ドラフト会議の前日の11月21日には西武の交渉権が消滅しており、「日本の中学・高校・大学に在学した経験のある者」をドラフト対象とするのはドラフト会議が行われる11月22日以後であると巨人は解釈し、11月21日時点で江川はドラフト対象外選手である、という解釈であった。, 午前10時、巨人の球団職員が東京・銀座のセ・リーグの連盟事務所を訪れ、統一契約書を提出したが、事務局長の金子家基は「コミッショナーほかの裁断を待って」とひと先ず預かるという形で受け取った[27]。プロ野球実行委員会が午後0時2分より東京・九段下のホテルグランドパレスにて開催。元々、翌日のドラフト会議のための下打ち合わせのためだったが[28]、これの後に巨人と江川の契約についての討議した。巨人からは長谷川球団社長が出席し、契約の正当性を主張したが他の11球団から「野球協約の精神に反する」「法の盲点を狙うのはスポーツマンシップに反するだけでなく、球界の秩序を乱す」との意見が続出。議論は5時間近くに及んだ[29]。, 午後6時20分よりセ・リーグ会長の鈴木龍二、パ・リーグ会長の工藤信一良、コミッショナー事務局長の井原敦、長谷川が記者会見。鈴木は、実行委での討議した末、巨人の江川の選手登録申請は野球協約上、該当しないとして却下すると発表[30]。長谷川は、東京地裁に対し江川の地位保全のため仮処分申請を行うと明らかにした[31]。, 巨人は午後8時45分から東京・大手町の読売新聞内の球団事務所にて記者会見し、オーナーの正力が「巨人軍は重大決意のもとに明日二十二日のドラフト会議に出席いたしません」「巨人軍は二十二日江川君の問題について、コミッショナー、リーグ会長に異議の申し立てを行います」との声明文を発表[32]。長谷川は実行委員会後の「仮処分申請」発言について、法的に検討した結果、申請までに時間がかかるとして、事態の推移を見て申請すると説明した[31] 。, 11月22日、ドラフト会議が午前11時から東京・九段下のホテルグランドパレスの「ダイヤモンド・ルーム」にて行われる。巨人はその開始直前に長谷川球団代表が同ホテルにて金子コミッショナー、鈴木セ・リーグ会長に対し江川の支配以下選手登録の申請を却下した事に対する異議申し立ての文書を手渡し、前日のボイコット宣言通りドラフトを欠席[33]。史上初めて11球団での開催となった。, ドラフト会議は今回から、それまで予備抽選を行い指名順を決定する方式から、全球団が第1位に指名する選手を入札し、一人の選手に複数の球団が指名した場合は改めて抽選を行い交渉権を獲得する球団を決定するという新方式が採用された。江川には南海、阪神、ロッテ、近鉄が1位指名し、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得した[34]。江川との交渉権を喪失した西武は社会人野球・住友金属の投手の森繁和を1位指名し、独占交渉権を獲得した。江川はこの日、弁天町にある当時交際していた恋人の菊池正子の実家にてドラフト会議のテレビ中継を観ていたという[35]。ドラフト会議が終了後、金子コミッショナーは「巨人は十分に反省しなければならない。二十一日の実行委でも、巨人のやり方を少しでも支持した球団は一つもなかったではないか。自分たちは何をしたのかを冷静に考えるべきだ」と語り、巨人を批判した[36]。, 巨人のオーナーの正力亨は午後3時半より東京・大手町の読売新聞本社にて記者会見し、野球協約ではドラフト会議は全球団の出席を不可欠の要因としており、今回のドラフトは効力が発生せずドラフト会議は無効であるとして、コミッショナーに提訴状を出したと発表する[36]。, 江川との独占交渉権を獲得した阪神は、ドラフト会議終了後、球団代表の岡崎義人、スカウトの小林治彦、田丸が船田事務所を訪問した。岡崎が玄関から呼び掛けたが中から「お会いできません」「蓮実は出掛けております」などとの返答があったのみで、わずか2分足らずで引き揚げた[37]。夕方、田丸が栃木県小山市の江川の実家へ電話であいさつしたが、江川の母親の美代子が「巨人の江川ですのでお会いできません」と返事した[37]。23日に江川の実家を訪問する予定だったが、当日になって取り止めた。阪神は冷却期間を置いて、その後に江川と交渉を行うことを決めた[38]。, 金子は12月21日、「ドラフト会議欠席は巨人側が勝手に行ったこと」としてドラフト会議の結果はそのまま有効とし、その上で「江川と巨人による入団契約は認めない」ことと「阪神の江川に対する交渉権獲得を認める」ことを裁定を発表した。, しかし金子は、翌12月22日のプロ野球実行委員会において「江川には一度阪神と入団契約を交わしてもらい、その後すぐに巨人にトレードさせる形での解決を望む」という「強い要望」を提示した。これは、江川獲得の正当性やセ・リーグ脱退を主張する巨人に対する批判が強まり、今後のプロ野球運営に支障をきたす可能性が出たため、江川獲得という巨人の目的を達成させることにより、問題の解決を図ろうとするものだった。野球協約では新人選手の公式戦開幕前の移籍は禁止されていたが、金子はそれを承知の上でトレードによる解決を提案した。なお、この規定は荒川尭のプロ入りをめぐるトラブル(荒川事件)を教訓に野球協約が改正されたもので、改正当初は初年度の移籍が禁止されていたが、この年から「公式戦開幕前」に緩和された。この改正は江川事件の発生する前に決定しており、江川事件とは関係なく偶然のタイミングであった。, この「強い要望」を公表したとき、金子は「各球団の実行委員もほぼ同意してくれた」と語っているが、阪神はこれに強く反発し、球団社長の小津正次郎も「王貞治を用意したとしてもトレードには出さない」と繰り返し発言していた。一方、巨人は前記のコミッショナー裁定を受け、12月27日に「空白の一日」による江川との契約を解除した。